「豊かな実を結ぶための死」(ヨハネの福音書12章20−36節)

24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。(ヨハネの福音書12章24−25節)

祭りの時に礼拝のためにエルサレムに来ていたギリシャ人たちがイエスキリストに会いたいと言っていることが、アンデレとピリポを通してイエスキリストに伝えられました。その時イエスキリストは「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と語り、続いて上記24節と25節のみことばを語ったのです。

人の子が栄光を受けるその時とは、イエスキリストの十字架での死を意味します。エペソの手紙2章の中に、異邦人に対して、「キリストの血によって近い者とされました」と語っている箇所があります。異邦人(またはユダヤ教に改宗した異邦人)であるギリシャ人たちがイエス様に近づこうをしていることを知り、イエスキリストが明確に十字架の時を認識されたのではないかと思います。

一粒の麦のたとえは、イエスキリストの十字架での死と、私たちもまた自分に死んでイエスキリストに従っていくキリスト者としての生き方を描写しています。種がそのままであれば何も変わりません。種が地中に埋められて、その種自体が死ぬときに初めて芽を出し、成長し、実を結ぶようになります。私たちは自分を主張し、自分の願いが実現し、自分自身を誇り、自分自身が力強く生きたいと願うものです。でもそのような自分の命よりもイエスキリストを選び取っていく時に、まさに神の力と栄光が現れていくと信じます。

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