1.はじめに
教会は単に集まるところではなく、建てあげられるものです。一人一人のイエスキリストと関係が強く、深く、親密になっていくにしたがって、イエスキリストを信じる者どおしの関係も主にあって強く、深く、親密になっていくものです。今日は、建て上げられる教会というテーマで語ります。主な聖書箇所はエペソ人への手紙4章1節から16節までです。
2.召しにふさわしく歩む
1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ人への手紙4章1−3節)
「召し」とは「救われた」とほぼ同義です。牧師や宣教師など特別な役職に召されていることではなく、イエス様を信じ受け入れたものは皆召されているのです。永遠のいのちが与えられて神の国を受け継ぐ者が、この地上に残されている目的や意味があります。その召しにふさわしいこの地上での歩みがあるのです。
特にエペソ人への手紙は前半で神のビジョンが語られているます。神のビジョンに向かうように召されていて、その召しに相応しい歩みがあります。その神のビジョンとは何でしょうか。それは「キリストにあってすべてのものが一つになる」ということです。
10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。(エペソ人への手紙1章10節)
イエス様もこう祈りました。
聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(ヨハネの福音書17章11節後半)
人間は、どんなに親しい家族や友人がいても、100%理解されることはないので、どこかで多かれ少なかれ孤独感を感じているものではないでしょうか。特に現代は孤独というのはますます大きな問題になっています。そういう中で、自分を100%知っておられ理解してくださる神がおられる、その神が神のゆえに私たちを一つにするというビジョンを持っておられる、それを知っており信じることができるということは、どれほど私たちの人生に力や励ましを与えるでしょうか。
この神の究極のビジョンに向かって歩むこと、その実現に向かって歩むことが、3節の「御霊の一致を熱心に保つ」ということです。
2節から3節にかけて、私たちが召しにふさわしい歩みをするために必要な資質や態度が記されています。それは謙遜、柔和、寛容、忍耐、平和です。皆さんにはこの資質や態度がいつもあるでしょうか。自分には欠けていると思っても、がっかりすることはありません。大切なことはこれらの資質や態度はキリストにあるということです。そしてそのキリストが、私たちのうちに聖霊を通して住んでくださっているのです。これらの資質や態度は、そのキリストを信じる信仰を通して表していくものであり、頑張りで身につけるものではないのです。
実は、御霊の一致も、私たちが人間的な努力や頑張りで実現するものではありません。御霊に一致ですからそれを実現するのは聖霊なる神です。
更には「御霊の一致を保ちなさい」とあります。保つということはすでにあるものだから保つのです。つまり神の目にはすでに御霊の一致はあるのです。私たちはそのことを信じて、その一致を目に見える形で表していくのです。
3.多様性における一致
それでは、御霊の一致とは具体的にどういうものでしょうか。4節から10節までを読みましょう。
4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。(エペソ人への手紙4章4−6節)
7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」9 —この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです—(エペソ人への手紙4章7−10節)
御霊の一致には共通の土台があります。それが4節から6節で「一つ」と言われているものです。その共通の土台の上に様々な賜物があります。私たち一人一人に異なった賜物が与えられており、その賜物のことが7節から10節で記されています。
ですから、御霊の一致は、皆が同じように見えて、同じように考えて、同じように行動するというものではありません。共通の土台はありますが、多様なものが調和している一致です。オーケストラの演奏のように様々な楽器が曲を奏でていますがそれが全体として調和しているようなものです。
まず共通の土台は、4節から6節の中で「一つ」と言われているものです。その中で特に三位一体の神がここにおられることに注目してください。御霊は一つ、主(イエスキリスト)は一つ、そして父なる神は一つです。この三人格(三位格)の神がさらに一つなのです。この三位一体の神に私たちが招かれて一つになる、私たちはこの壮大な神の究極のビジョンに向かっているのです。
さらにからだは一つです。地域教会はたくさんありますが、ここではこの地上一つあるキリストのからだである教会です。、望みは一つです。私たちは神の国を受け継ぎ、キリストにあって一つになります。信仰も一つです。キリストが唯一の神への道です。バプテスマも一つです。バプテスマの本質はイエス様を信じた時に聖霊によってキリストのからだにバプタイズされるということです。
これらが共通の土台です。7節で「しかし」と使っているのは、ここに対比があるからです。「一つ」と言われる共通の土台の上に、私たち一人一人には様々な異なった賜物が与えられています。
当時戦争に勝利すると、都に戻ってきて凱旋しました。その時捕虜を連れてきて、市民には贈り物を与えたそうです。私たち一人一人に与えられた賜物をその贈り物に例えてここで語られています。イエスキリストは、十字架と復活によって罪と死に勝利し、天に昇られました。そして聖霊が降りてこられました。この聖霊なる神様こそ私たちへの贈り物です。聖霊は一人ですが、異なった御霊の現れという形で、私たちそれぞれには異なった賜物が与えられているのです。
このように共通の土台の上に様々な異なった賜物が調和していることが御霊の一致です。
4.教会の成長
それではその御霊の一致は、具体的にどのように実現していくのでしょうか。11節から16節までを読みましょう。
11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ人への手紙4章11−13節)
14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばあれたりすることがなく、15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ人への手紙4章14−15節)
16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(エペソ人への手紙4章16節)
まず御霊の一致が具体的に実現していくために立てられている者がいます。それが使徒、預言者、伝道者、牧師また教師です。これらの役職は、7節から10節で語られた賜物の一つとして挙げられているのです。狭い意味での使徒と預言者は今の時代はいませんが、使徒的な働きや預言者的な働きはあると思います。いずれにしてもこれらの役職は「聖徒たちを整える」こと、そして「奉仕の働きをさせる」という賜物なのです。
こういった賜物を通して、主にあって兄弟姉妹との関係が築き上げられていきます。つまり御霊の一致が目に見える形で実現していくのです。それが教会の成長です。「完全な大人になって」「身たけにまで達する」など成長に関する言葉が使われています。教会の成長は、単に人数が増えるとか規模が大きくなるとかではなく、もちろんんそのような面もありますが、本質的なことは関係が築かれていくということです。
この意味での成長に関して、大切なことを2つお話しします。
一つは、奉仕を通してキリストを体験的に知るということです、
牧師や教師などが立てられているのは「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせる」ためであり、その奉仕を通して、13節にあるように「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達する」のです。
知識の一致と言うと頭だけの知識に読めてしまうかもしれませんが、聖書で知るということは基本的に体験的な知識のことです。奉仕の働きをしていく中で、お互いに仕え合っていく中で、私たちはをキリストを体験的に知っていきます。イエスキリストというお方がどれほど信頼できるお方であるかを、一緒に体験していくということが私たちが一つになっていくということなのです。
5.最後に「備えられたあらゆる結び目によって」
教会の成長のためにもう一つ大切なことは、結び目が備えられていると信じることです。16節に「備えられたあらゆる結び目によって」「しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」とあります。このことを最後にお話しして今日のメッセージを終わりにします。
「備えられたあらゆる結び目」って何でしょうか。
私は結び目が何かというよりも、「備えられて」いるということがポイントではないかと思いました。それでは誰が備えているのでしょうか。もちろん神様が備えておられるのです。
人と人との関係を築く「結び目」、人と人とを結びつける「結び目」は、これとこれですというように単純なものではありません。賜物がそうであったように、人の全人格、経験、価値観などは、人によって全く異なります。そのような人と人とを結びつけるものは決して単純なものではないはずです。
ちなみに聖書のリビング訳はこの「備えられたあらゆる結び目」という箇所を「特別な方法で」と訳しています。人間の想像や思いを超えた神様が備えた特別な方法で、私たちの関係が築き上げられていくということです。
ですから単純には言えませんがあえて例を上げるならば、ある人の弱さが、ある人の強さと結び目になって、お互いが助け合えるかもしれません。ある人の強さの背後にあるプライドが、ある人の弱さと結び目になって、そのプライドが砕かれるかもしれません。癒しを必要としている人が、祈りの賜物のある人と結び目になって、回復を体験していくかもしれません。ある人の大胆さとある人の慎重さが結び目となって、激しい霊的な戦いの中でも、信仰に立って悪魔に立ち向かっていけるのかもしれません。
決して単純には言えないのですが、教会には、キリストにある兄弟姉妹の関係を築くための結び目が、神によって備えられているということがポイントなのです。
皆さんは自分の必要を教会の外に求めていることはないでしょうか。先週も言いましたが、キリストにあって兄弟姉妹が一つになるプロセスはとてもチャンレジでしょう。教会の中には、関係を築くのがとても難しい人もいるかもしれません。とても結び目があるとは思えないという関係の人も周囲にいるかもしれません。
しかし、イエス様を信じた方は、神様がどこかの地域教会に導き、この地上に一つあるキリストのからだとしての教会を建て上げようと導かれると信じます。そしてその地域教会には、必ずあなたの必要のために結び目として備えられている人がいるはずなのです。またあなたを必要としている人も結び目として備えられているはずなのです。
地域教会には、あなたの必要を満たすために神が働かれる器が結び目として備えられています。そしてあなたという神が働かれる器を必要としている人が結び目として備えられているのです。それが教会ではないでしょうか。
ですから大切なことは、その結び目が備えられていることを信じることです。その信仰を通して教会が建て上げられていくのです。その信仰を通して御霊の一致が保たれ実現していくのです。
神様の作り出す一致や調和は、私たち人間の思いや想像をはるかに超えたものです。だからこそ教会というのは、とても面白いものであり、またとてもダイナミックなものです。その教会が皆さんの信仰によって建て上がっていくのです。