26 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親戚に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」27 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐに鶏が鳴いた。(ヨハネの福音書18章26―27節)
あれほど勇ましく、どんなことがあっても自分はキリストについていくと豪語したペテロが、キリストを3度も否定し、つまずく箇所です。キリストが逮捕され、裁判にかけられるという思いもかけなかった事態に、ペテロにも動揺があったでしょう。自分がキリストの弟子であることを否定しただけではなく、キリストを呪うことさえもしてしまいました。人間はとても罪深く、弱いものであることを思わされます。この出来事は、決して他人事ではなく、私たちの現実でもあります。
しかし私たちは、ペテロがこの後復活にキリストに出会い、キリストによって立ち直っていくことも知っています。そして再び使徒として、ペテロは教会時代を切り開いていくことになるのです。ペテロにとって、このつまずきに体験は必要でありました。自分の力ではキリストに従っていくことが不可能であることを知るためです。自分の罪深さや弱さを知っているからこそ、私たちは自分の力ではなく、キリストを信じキリストにより頼む信仰で、キリストに従っていく者となるのです。私たちもつまずくことがあります。しかしそんな私たちを、キリストは立ち上がらせてくださいます。そしてそのつまずきの体験が、一層キリストとの関係を強固にしてくれるのです。