あわれみはさばきに向かって勝ち誇る(ヨハネの福音書7章53−8章11節)

7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネの福音書8章7節)

姦淫の場で捕えられたひとりの女が、ユダヤ人宗教指導者たちによってイエス様のところに連れて来られました。そして彼らは、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」と言って、イエス様にチャレンジを与えました。

これまでのイエスキリストとユダヤ人宗教指導者たちとの論争は、安息日の解釈など、いわゆる口伝律法をめぐる解釈の問題であったのに対して、この話は律法そのものに関するものです。律法の要求に対して神の恵みとあわれみはどうなるのか、なかなか難しい話であると思います。なぜなら、国家にしても、教会においても、また両親においても、ある一定の権威が与えられており、「さばき」をせざるを得ない状況に直面することがあると思うからです。

この話の一番の問題は、女をさばくように求めたユダヤ人宗教指導者たちに罪の意識がなかったことです。あたかも自分たちは何の問題もない、正しいものとして、この女のさばきを求めていきました。しかし「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」というイエス様のことばに、彼らは自分たちの罪を自覚し、一人一人去っていったのです。

ヤコブ書にこのようなみことばがあります。

13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。(ヤコブ書2章13節)

私たちは、神様からさばきを委ねられた者として、何らかのさばきを下さなくてはいけないこともあります。しかしその時必要なのは、自分自身も罪人であり、神のあわれみを受けなければならない存在であるという自覚です。そしてイエスキリストが全人類の罪を負って、    さばきを受けてくださったという認識です。イエスキリストの御業によって、あわれみはさばきに向かって勝ち誇るのです。

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