むなしい思いから真実な歩みへ

1.はじめに

皆さんはこの週末をどのように過ごされたでしょうか。パドレスとドジャースとの決着が着いて、サンディエゴの熱い週末がちょっと一段落したという感じでしょうか。最後の試合は私もテレビでじっくり観る機会が与えられまして、この熱い試合を一緒になって観戦することができました。パドレスファンにとっては、結果は残念でしたが、試合は接戦でしたし、とても良い試合であったと思います。

この週末はサンディエゴも熱いお祭り騒ぎであったと思いますが、熱い祭りが過ぎ去った後に訪れる一種の虚無感というものを、皆さん味わったことはないですか。私が銀行員の時は宴会がたくさんありました。熱い宴会騒ぎの後、一人で家に戻って味わう何とも言えないむなしさを感じていたことを思い出します。むなしさというのはとても厄介なものですね。何とも言えない、得体の知れない、決して快くはない感覚です。そしてこのむなしい思いというのは、人間が抱えている最も大きな問題の一つではないかと思います。

何で「むなしさ」のことを話をするかというと、今日の聖書の箇所に「むなしい心」という言葉が出てきているからです。「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません」というフレーズがあります。

このむなしさというのは、現代の私たちだけの問題ではありません。聖書の時代においても、むなしさというのは大きな問題でありました。

聖書に登場してくる人物の中で、むなしい思いを最も表現した人物は誰だと思いますか。私はソロモン王であると思います。ソロモン王はイスラエルの第三代目の王様です。ソロモン王は旧約聖書の「伝道者の書」という本を書きました。この伝道者の書を読むと、ここには本当にむなしさで溢れています。「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」など、このようなフレーズがたくさん出てきています。

そして興味深いことは、ソロモン王の時代こそ、古代イスラエルの歴史の中で最も繁栄した時代であったということです。ソロモン王は歴代のイスラエルの王様の中で最も裕福な王であったのです。それは物質的なものだけではありません。聖書によると、ソロモン王には何と七百人の王妃としての妻があり、三百人のそばめがあったとあります。

むなしさは時代を超えた人間の課題であって、それは決して物質的なもので埋めることはできない、異性、家族、友人など人間関係などで埋めることもできない、いやむしろ、それらでむなしさを埋めようとすればするほどエスカレートしてくるものであることが分かるのです。

それでは私たちに必要なものは何か、それを今日お話ししたいと思います。ということで今日のタイトルは「むなしい思いから真実な歩みへ」です。聖書箇所は、新約聖書エペソ人への手紙4章の後半、17節から最後の32節までです。

2.むなしい心とは何か

17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。(エペソ人への手紙4章17節)

18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。19 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。(エペソ人への手紙4章18−19節)

先週も話したのですが、エペソの手紙は1章から3章までが教理的な教え、4章からが実践的な教えになっています。実践的な教えということもあって、4章以降は「何々をしなさい」「何々はしてはいけません」というような命令や禁止が多く出てきます。このような箇所を読むと、キリスト教はそのような規則の積み重ねで、窮屈なものであると感じてしまう人もいると思います。でも命令や禁止を守ることが信仰生活の本質的なことではないということを知ってほしいのです。

大切で本質的なことは、神はどういうお方で、神は私たちにどんなことをしてくださったかということです。それを信じることを通して、神の命令や禁止を私たちは自ずと守るようになるのです。神の命令や禁止は、私たちが神を信じる信仰が、生み出していくものなのです。私たちの信じる心が神の命令を実現していくのです。

17節に「勧めます」という言葉があります。4章の1節に「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます」というように「勧めます」という言葉が出てきました。勧めているのは「私」、つまりこの手紙を書いたパウロですが、でも「主にあって」とあるので、神がパウロを通して勧めているということです。

そして「勧めます」ということは、私たちが神様のしてくださったことに対して、自覚して、そして自主的に、つまりただ「やらなくてはいけない」というのではなくて、自覚的に自主的に応答することが期待されているのです。神は私たちを奴隷として強制するのではなく、子どもとして、私たちの自由意思と尊厳を認めているということが、「勧めます」という言葉に表れています。


さて、17節から19節までの中でまず注目したいのが、冒頭でも触れた通り、「むなしい心」という言葉です。

「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません」とあります。この手紙の宛先であるエペソの教会の信者はほとんどがユダヤ人ではなく異邦人であったと思います。ですからここでの「異邦人」とは、真の神を知らない、または真の神を知ろうともぜず背を向けている異邦人のことです。

「むなしい心」(正確にはむなしい思い)とはどのような心(思い)でしょうか。

一般的に「むなしい」とは、①空虚である、②無益である、無駄である、③儚い、などの意味があります。

私たちの歩みに当てはめてみると、それは「意味がない」とか「目的がない」というニュアンスが一番ピッタリするのではないでしょうか。私たちがどんなに仕事で実績をあげ、家族に恵まれ、経済的に豊かであっても、「死で終わるこの人生にどんな意味があるのだろうか」「私は何のために生きているのだろうか」というような思い、その答えが見つからなくて、それゆえに心にぽっかりと穴が空いているような感覚です。人間は、自分の人生の歩みに意味や意義を見出すことができなかったり、感じることができなかったりすることが耐えられないのです。なぜなら神が人間に対して存在目的を与えているからです。

先ほどソロモン王のことを話しましたが、世界の中でものすごい実績を上げた著名な人物が、その地上生涯の終わりを迎えるにあたって、むなしさを証している例がたくさんあります。例えばアップルの創業者、スティーブ・ジョブズも、死を前にこのような最後の言葉を残しています。「私がずっとプライドを持っていたこと、 認められることや富は、 迫る死を目の前にして色あせていき、 何の意味をもなさなくなっている。」

太宰治という作家が書いた短編小説「トカトントン」というのがあります。

この話の主人公は、ある時を境に、事あるごとに不思議な金槌で何かを叩くような音を聞くようになります。それが「トカトントン」という音です。

何か物事に感激する、奮い立とうとすると、その「トカトントン」という音が聞こえてきて、全てが馬鹿馬鹿しくなってしまうということが繰り返されるようになりました。

最初にその音を聞いたのは、日本が第二次世界大戦で負けて、ポツダム宣言を受け入れて、天皇によるラジオ放送があって、主人公のボスであった軍人が「これから自決して、天皇にお詫びする」という覚悟を語る、その厳粛な雰囲気に浸っていた時でした。その厳粛な雰囲気の中にいた主人公は、その音を聞いて急に白々しくなってしまったのです。

ある時は、一生懸命に小説を書いていて、最後の章を書く段階になってその音を聞きます。急にやる気が失せてしまって、原稿を破る気力も無くなって、この後その原稿は毎日の鼻紙になってしまいました。

この音が、仕事においても、恋愛においても、盛り上がってくると聞こえてくるのです。そして、この小説は手紙形式なのですが、「人生とは、一口に言ったら、なんですか」「この音は、なんでしょう」という叫びが綴られています。人生の意味は何なのか、生きる目的は何か、それを見出せない人のむなしい心を、とてもよく表現した小説だと思いました。

このむなしい心は、神から離れた罪人である人間誰もが持っているものです。

18節に「彼らは、その知性において暗くなり」とあります。これは神を知ることにおいて暗くなりということです。つまり神を知らないということです。

また同じく18節に「かたくなな心とのゆえに」とあります。これは神を知ろうとしない心のことです。単に知らないだけではなく、知ろうとしない心です。

19節には「道徳的に無感覚」「好色に身をゆだねて」「あらゆる不潔な行いをむさぼる」というフレーズが出てきます。

神を知らず、神を知ろうともしない罪人は、そのむなしい心を埋めるために、またそれを感じないようにするために、際限のない様々な欲望や情欲に走り続けるのだということが語られているのです。

むなしさというには神から離れた罪人すべてが持っているものです。そのむなしさは神でしか埋めることはできません。その神に立ち返ることなく、むなしい心で歩み続けるならば、つまり神を知らないまま、また神を知ろうともしないままで歩み続けるならば、際限のない欲望や情欲に走り続けることになります。そしてその先にあるのが滅びなのです。それが今読んだ17節から19節の中で語られていることです。

3.真実に生きる

20 しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。21 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。(エペソ人への手紙4章20−21節)

22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ人への手紙4章22−24節)

25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。(エペソ人への手紙4章25節)

20節に「しかし」とあります。私たちは、むなしさの中で滅びゆく罪人であったのですが、この「しかし」という言葉に私たちは希望を見出すのです。

22節にある「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人」というのが、むなしい心で、神を知らず、また神を知ろうともせず、際限のない欲望や情欲に走っていく人のことです。かつての私たちもそうでした。しかしそんな古い人を、私たちは脱ぎ捨てることができるのです。

その代わりに着るのが、24節にある「新しい人」です。この新しい人とは、キリストを信じ、キリストに従っていく人のことです。

ここで、新しい人を「着る」と表現していることが、とても大切です。

キリストを信じ、キリストに従っていくとは、単にキリストの教えを守っていくということだけではありません。キリストご自身との生きた関係、キリストご自身との人格的な関係の中で歩んでいくという意味があります。イエスキリストご自身を身につけていく、その心も、考え方も、生き様も含めて、身につけて歩んでいくことなのです。

さて、この20節から25節までの中に、「真理」という言葉が何回か繰り返されています。

21節に「まさしく真理はイエスにあるのですから」とあります。24節に「真理に基づく義と聖をもって」とあります。また25節に「おのおの隣人に対して真実を語りなさい」とあります。日本語では「真理」と「真実」で異なる言葉を使っていますが、英語は3つともtruthであり、元々のギリシャ語も3つとも同じ言葉です。

またその真理に相反する言葉として、22節には「人を欺く情欲によって」の「欺く」という言葉があります。また25節には「あなたがたは偽りを捨て」の「偽り」という言葉があります。

ですから、いずれにしても、ここでは「真理」とか「真実」ということが強調されていることがわかります。

むなしい心と真理というのは、とても密接な関係があるように思います。

「死で終わるこの人生にどんな意味があるのだろうか」「私は何のために生きているのだろうか」というむなしさの思いの中には、「人の人生って本当は何なのだろうか」「人とは何者なのか」「本物はあるのか」といったような、真理に対する渇望があると思います。

何が真理であるかは別にして、真理というのは、どのように状況が変化しても変わらない、動かないものです。絶対的なものです。そして変わらない、動かない、絶対的なものがあるからこそ、私たちはそこに、本当の意味で信頼を置くことができるわけです。

しかし、人のどんな人生も死で終わる、時代はどんどん変わっていく、すべての状況がコロコロ変わってしまう、人の心も変わってしまう、絶対的な方を知らずして、そのような現実に直面するならば、生きていることに何の意味があるのか、むなしさやはかない思いが出てきて当然だと思います。

このように、むなしい思いというのは、人間は永遠に変わらないもの、絶対的なものを必要としているのだということの現れではないでしょうか。

「トカトントン」を紹介したので、ついでにその最後はどうなるかについても触れておきます。

この主人公は、ある時を境に「トカトントン」という音を聞くようになったのですが、それはその時の状況や人々が、おそらく主人公にとって、ウソっぽく感じるようになった瞬間だと思いました。そして最後は、この主人公は自分自身がウソっぽく思うようになりました。

この小説は手紙形式で書かれているのですが、最後の方で「ウソばっかり書いたような気がします」と綴っています。そして続いて「しかし、トカトントンだけは、ウソでないようです。」と綴ってこの手紙を終えています。最後は、自分自身も含めて、何が本当で何がウソなのかわからなくなっているのです。

むなしさの背後には真理に対する渇望があるのです。

ですから、21節の「まさしく真理はイエスにあるのですから」というフレーズは、とても重要で、意味深いのです。もし私たちが、これを心から信じることができるならば、私たちはむなしい心から解放されていきます。そして古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着て歩むようになっていくのです。

人間は神によって創造されました。しかし罪が入って、人は神から離れた罪人となりました。しかしその罪人を、神は愛しておられ、その罪を赦すために、そして罪人となって神から離れた人を、もう一度ご自分のものとするために、神ご自身が、つまりキリストがこの世に来られて、十字架の死を受けられ三日目に復活したのです。これを信じるものには永遠のいのちが与えられます。そしてキリストはもう一度来られます。その時には、キリストの愛による完全な支配が成就します。これが真理です。

そして神の計画の中心はキリストです。神の愛の最大の現れはキリストです。ですから、真理はイエスにあると言えるのです。

この神の救いの計画は変わりません。私たち人間を愛してくださる神の愛は変わりません。神ご自身は変わらない方なのです。

この世はどんどん変わっていきますが、人の心も変わってしまうかもしれませんが、その中にあって変わらないものがあるのです。動かないものがあるのです。絶対的なものがあるのです。それが神ご自身であり、神の愛であり、神の計画なのです。

それに対して私たちは簡単に揺れ動くものなのですが、この変わらない神様の変わらない愛を信じ続けることによって、私たちもまた、イエスキリストに近づいていく、真実な生き方がだんだんできるようになっていきます。

ですから25節は「おのおの隣人に対して真実を語りなさい」といっているのです。これも新しい人、キリストが身についていくことを通して、実現していくことなのです。

教会は、真実なお方であるキリストとの関係を築くことを通して、また私たちの中でも真実な関係を築いていく、そのような共同体なのです。

4.新しい人を着る歩み

26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(エペソ人への手紙4章26−28節)

29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ人への手紙4章29−30節)

31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ人への手紙4章31−32節)

この箇所は、新しい人を身につけた生き方が、具体的に述べられています。簡単にポイントだけお話しします。

最初に「怒り」について述べられています。この世という罪の世界にいる以上、怒ることは当然起こります。怒り自体が罪ではありません。神も怒ります。イエス様も、宮清め、つまり神殿を商売の巣としていた宗教指導者たちに対して怒りを表しました。問題はその怒りを持ち続けることです。

怒りとは、義憤という言葉があるように、正しいことが行われていないということに対して出てくる感情です。それを持ち続けるということは、自分が正しいという自己正当化の罪が熟成されていきます。そこを悪魔が使うのです。

私たちは、神が何をしてくださったのかというところに立ちましょう。本来であれば罪人である私たち一人一人が受けるべきであった神の怒りを、キリストがすべて受けてくださったのです。そのキリストの愛を信じるところに、私たちが怒りから解放されていく道があるのです。

次が「盗み」です。奪う人生から与える人生へと変えられていくということです。何よりも神は与える神です。何よりも、キリストを私たちに与えてくださったのです。

盗みは、他の人や、他の人が持っているものを羨むとか妬むという感情から生まれてくるものです。

聖書は「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょんにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と言っています。この与える神を信じることを通して、私たちは何とかして得ようとする歩みから与える歩みへと変えられていきます。

次は悪い言葉です。言葉というのは刃物のように、すごく良いもののためにも使われますが(料理には欠かせません)、人を殺す道具にもなります。

神は語る神です。私たちが新しく生まれたのは、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。そして私たちは神のことばによって日々養われていきます。どれだけ日頃、神のことばを通して神と交わっているかどうかがポイントです。そのような私たちは、神と同じように、また様々な人に対しても、神のことばをベースにした人を生かすことばを語るようになるのです。

そして最後に聖霊を悲しませないということです。キリストを信じる者は、罪を犯したことによって罰せられるという恐怖からは完全に解放されています。キリストが代わりに罰を受けてくださったからです。

ですからその恐怖はないのですが、神様を悲しませたくないという思いがなくてはいけないし、実際あるのです。奴隷がもつ恐怖はないですが、神の子どもとして神を悲しませたくないという思いが与えられています。それは神の子どもとしての神様との関係が回復したからなのです。ですから私たちは、単に悲しませたくないというだけではなく、むしろ喜んでほしいという思いで信仰生活を送ることができます。それが新しい人を着た歩みです。

このように、繰り返しになりますが、信仰生活は、単に命令を守ることが本質的なことではなく、神様との関係に生きることであるということをぜひ覚えてほしいと思います。

5.最後に

今日は「むなしい思いから真実な歩みへ」というタイトルで語ってきました。

むなしさというのは、神から離れた罪人である人間が誰でももつ感覚なのです。そしてむなしさは、人間の努力で埋めることはできません。神ご自身のみがそれを埋めることができる、つまり神様が私たちたちをむなしさから解放することができるのです。

この世の中はまずます変わっていくと思います。ますます何が起こるかわからない時代になっていくでしょう。人の心も、不安や恐怖で、あるいは利益を求めて、揺れ動き、簡単に変わってしまうものです。そのような世の中にある人々のむなしい思いはますます増大していくと思います。

でも私たちはその中にあって、変わらない、動かない、絶対的なお方を知っており、信じているのです。

キリストを与えてくださった神の愛は変わりません。

私たち人間の罪のために、自ら喜んでご自分を十字架にささげたキリストの愛は、今も変わっていません。今もキリストは生きておられます。

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル人への手紙13章8節)このみことばの通りです。

真理はこのキリストにあります。

変わらない、動かない、絶対的な神の愛、私たちはここに立つからこそ、むなしい心で歩んでいた古い人を捨てて、新しい人を着ることができるのです。

私たちはキリストを身につけて、そしてそのキリストとの真実な関係に生きる神の子どもたちなのです。

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