36 『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」(ヨハネの福音書7章36節)
ユダヤ人宗教指導者たちや群衆の中で、イエスはキリストなのかということで混乱と論争が起こりました。しかしいくら彼らが議論しても、混乱と混迷は深まるばかりです。なぜなら彼らは、イエスキリストというお方について断片的な情報はあったとしても、イエスキリストというお方を人格的、個人的、また体験的に知ってはいなかったからです。
彼らの議論の中でイエスキリストは「わたしはその方(父なる神様)を知っています。」と語りました。この「知る」とは、親しい人格的な交わりを通して知っているということです。ユダヤ人宗教指導者たちや群衆たちが使う「知る」とは単なる情報として知るということであり、その意味合いは全く異なっていました。
イエスキリストを知るとは、人格的に、個人的に、体験的に知るということです。そのキリストを知る旅は終わることがありません。知れば知るほど、もっと知りたくなり、また分からないことももっと増えていくものです。この地上生涯を歩む限り、キリストを知り続けていきたいと思います。