多く赦された者は多く愛する(2024年6月9日)

1.はじめに

今日は「赦し」というテーマで、みことばを通して一緒に神様からのメッセージを受け取っていきたいと思います。キリストの福音の中心的なメッセージは赦しです。十字架のメッセージは、キリストが十字架の上で尊い血潮を流してくださったことによって、私たちの罪が赦されたということです。

イエス様は公宣教の中で赦しについていろいろな形で教えました。ある時は、「あなたの罪は赦されました」と赦しの宣言をしました。またある時は赦しのメッセージを語りました。特にたとえ話を使って赦しのメッセージを伝えた箇所があります。それがマタイの福音書の18章とルカの福音書の7章にあります。今日はルカの7章からメッセージを語りますが、少しだけマタイの18章も触れます。このたとえ話の共通点は、罪をお金の借金に例えていて、その借金が弁済されることを罪の赦しに例えていることです。

今回のメッセージを準備して改めて思わされたことは、赦しということが、私たちが前向きに生きる上で大きな原動力になっているということです。赦しは私たちの行動力に大きな影響を与えます。赦しをどのように受け取っているかによって、私たちの行動が変わってくるのです。もう一度私たちは、イエスキリストによる赦し、十字架による罪の赦しをどのように受け取っているかを吟味していきたいと思います。

2.パリサイ人シモンと罪深い女

36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。(ルカの福音書7章36−38節)

39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。40するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。(ルカの福音書7章39−40節)

41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。(ルカの福音書7章41−43節)

(1)パリサイ人シモン(36節)

まずパリサイ人が登場します。40節でイエス様が彼を「シモン」と呼んでいるので、このパリサイ人の名前がシモンであることが分かります。このパリサイ人シモンがイエス様を家に招くというのが今日の場面です。

当時社会的に地位がある人、お金持ちなどは、ラビ(ユダヤ教の教師)を家に招いて食事を共にするということがありました。そのこと自体が非常に崇高な行為とみなされていたようです。そしてこのラビを招いての食事会というか宴会は、一般の人にも扉が開かれていたこともあったようです。食事は招かれた人だけだと思いますが、誰でもラビの話を傍聴できたということです。そのような食事会を催すということが、当時の社会的なステータスを表すところがあったのでしょう。

(2)罪深い女(37−38節)

そこに、37節と38節ですが、その町の罪深い女がその場所に入ってきました。37節の冒頭には原文には「イドゥー」という「見よ」(Behold) という言葉があります。注目に値するということです。この罪深い女というのは、いわゆる遊女と言われる女性のことを指していて、それを婉曲的に表現しています。「その町に」という言葉があるので、そこでは結構知られている女性であった可能性があります。

ラビの話を聞くことが一般の人にも開かれているとは言え、このような女性が入ってくるとは、おそらく皆思っていなかったと思います。またこのような女性が入ってくることは相応しくないと、ほとんどの人は思っていたでしょう。少なくとも、宗教指導者であるパリサイ人シモンはそうでした。

この女性は入ってきてどのような行動をとったのでしょうか。

まず38節に「泣きながら」とあります。この動詞は声をあげて泣く時に使われる言葉です。この言葉は、福音書の中の他の箇所では、例えば次のようなところに使われています。

「ラケルがその子らのために泣いている」(マタイ2章18節)

バビロン捕囚によって自分の子どもたちが連れて行かれるのを見て嘆き悲しむ姿をラケルの嘆き叫びと呼んだのですが、それが新約聖書に引用されている箇所です。

「そうして、彼は出て行って、激しく泣いた」(マタイ26章75節)

これはペテロがイエス様を3度裏切って泣く場面です。

このようにすごく感情が込み上げてきて、その感情がほとばしるように声をあげて泣くことを表現する言葉です。もちろんこの罪深い女の場合は、罪が赦されたことの感動と喜びで、感情が込み上げてきて、その感情のままに声をあげて泣いたということです。

続いて「イエスのうしろで御足のそばに立ち」とあります。当時人々は食事をとるとき、横になって左肘をつきながら右手で食べました。足を伸ばしているので、その伸ばした足にこの女性は近づいていくことができました。

「涙で御足をぬらし始め」それほどまでに泣いて涙が溢れんばかりに出ていたことが分かります。

「髪の毛でぬぐい」当時女性は、特に宗教的な女性は被り物をしていることが普通でありました。女性が髪の毛を公の場で見せているということは、当時の宗教指導者の視点からすれば大変不道徳であった訳です。彼女がどのような素性の女性であったかが、このことからも分かります。

「御足に口づけして、香油を塗った」イエス様の足元にいたこの女性は、イエス様の足に口づけをして、そして彼女自身が持ってきた香油をイエス様の足に塗ったのです。

(3)シモンの裁きとイエス様の応答(39−40節)

パリサイ人シモンはこの女性の外見を見て、またその振る舞いを見て、裁きました。

こんなところに来るべき人ではない、遠ざけるべきとこの女性を見下しました。イエスキリストはこの女性をどのように扱うだろうかと興味津々だったと思います。このような状況の中、イエス様はたとえ話を語ります。

(4)たとえ話

ある金貸しからお金を借りていた二人の人のたとえ話です。借金額は、一人が50デナリ、もう一人が500デナリです。当時1デナリは労働者の一日分の賃金と言われるので、一人が50万円、もう一人が500万円の借金があったということです。でも二人とも借金を免除してもらいました。普通はあり得ませんね。もし実際にあったら、どちらが金貸しを愛するようになるでしょうかイエス様が質問しました。もちろん借金を免除してもらえるのですからどちらも嬉しいですが、やはり500万円借金免除してもらったら、50万円に比べると感激も大きいですね。感謝も大きくなります。パリサイ人シモンは「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われました。

普通に考えると、誰でも正解できる質問でした。しかしこのパリサイ人シモンの答えが、自らを裁くことになってしまうのがこの続きです。

3.多く赦された者は多く愛する
44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。45 あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。(ルカの福音書7章44−46節)

47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」(ルカの福音書7章47節)

48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカの福音書7章48−50節)

最初に、当時社会的に地位がある人やお金持ちが、ラビを家に招いて食事を共にすることがあったという話をしました。そして当時家の主人がお客さんを招く場合、ある意味常識のような、もてなしの仕方がありました。

一つは足を洗うということです。通常はその仕事はその家のしもべが行いました。埃っぽい道や泥だらけの道を歩くことも多かったでしょう。当然足は汚れているはずです。二つめは口づけをするということです。男性はお互いにほおに口づけをしました。この挨拶は、今でも中東にある文化です。三つ目は油を頭に塗るということです。炎天下を歩いてきて、ボサボサになっている髪の毛を整える意味があったと思います。

しかしパリサイ人シモンはそれらのことをイエス様にしていなかったのです。イエス様を招いているのに、このようなもてなしをしなかったということは、招いてはいるけれどもイエス様のことをはなから見下していたのか、あるいはイエス様を試そうとしていたのかもしれません。

興味深いことは、これらのお客さんをもてなし、歓迎する行為をすべてこの罪深い女が成したということです。足を洗うことについては、この女性は涙でイエス様の足をぬらし、その足を髪の毛でぬぐいました。口づけをすることに関しては、ほおではありませんが、イエス様の足に口づけをしました。油を頭に塗ることについては、頭ではありませんでしたが、代わりにイエス様の足に油を塗りました。

イエス様は、語ったたとえ話をベースに、二人の行動の違いがどこから来るのかということを語ります。それは、この女性を500デナリの借金が免除された人になぞらえて、この女性は罪が赦されたということに心から喜び、感謝に溢れていたということです。それがこのような素晴らしい愛の行動として現れてきたのです。

それに対してパリサイ人シモンを、50デナリの借金が免除された人になぞらえました。彼には、赦されたという思いに欠けていたか、またはなかったか、あるいはそもそも赦される必要があるという自覚もなかったのかもしれません。そのような内側の状況の違いが、外側の行動に現れてきたのだよということです。

47節のイエス様が言われたフレーズについては、最後にもう一度お話ししたいと思います。

そしてイエス様は、皆が聞いている公の場で、この女性に対して罪の赦しの宣言をして送り出します。そして言われました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

この女性が、これから、遊女としてではなく生きていくために、そしてユダヤ人共同体の中に入って生きていくために、公の場での赦しの宣言と、個人的な励ましが与えられたのだと思います。イエス様はこの女性を心からケアしているのです。

4.最後に「多く赦された者は多く愛する」

最後にイエス様が語られた47節に焦点を当てて、もう少し深く考えていきたいと思います。この箇所は結構難しい、わかりずらい箇所です。

47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」(ルカの福音書7章47節)

(1)「多く愛することで多くの罪が赦される」ではない

まず何でないかということですが、この箇所は「多く愛することで多くの罪が赦される」ということではありません。パッと読むと、「愛したから」と言っているので、「多く愛すること」が原因とか理由で、その結果「多くの罪が赦される」と読めてしまうかもしれません。

しかし「私たちの行いによって罪が赦される」ということはないということが聖書を貫く真理です。愛するという良い行いの結果、私たちの罪が赦されるということはありません。私たちの罪の赦しは、私たちの行いにはかかっていません。私たちの罪は、ただイエスキリストが十字架で流してくださった血潮のゆえに、ただ神の恵みによって赦されるのです。私たちはただそれを信じて受け取るだけです。

(2)「多く愛することは、多く赦されていることのしるしである」

この箇所の解釈として、「多く愛することは、多く赦されていることのしるしである」というのがあります。新共同訳聖書を読むと、この意味が明確になります。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。(ルカの福音書7章47節、新共同訳)

多く愛することで、多く赦されていることが分かると言っています。多く愛することは、多く赦されていることの証拠であるということです。

確かにイエス様は、パリサイ人シモンと罪深い女の人の行動を見て、罪の赦しをどれほど受け取っているかによって、その違いが現れているということを言っています。

でもこれはイエス様であるからこう言えるのでないでしょうか。「イエスは彼らの心の思いを知って言われた」(マタイ9章4節)「彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて」(マルコ2章8節)とあるように、イエス様は、人の心を見抜かれる方です。

一方私たちがこれをそのまま適用することはできません。私たちは誰かの行いを見て、たとえそれが素晴らしい愛の行いに見えても、それを持って「この人は罪の赦しをどれほど受け取っている」とか「この人の信仰はどれほどのものか」などと判断することはできません。

私がこの47節の箇所から一番受け取るべきメッセージはこうであると思います。

(3)「多く赦されたと信じる者は、多く愛するようになる」

それは、「多く赦されたと信じる者は、多く愛するようになる」ということです。「信仰によって多く赦されたと認識する者は、多く愛するようになる」と言っても良いと思います。

A: 神様がなされた業

まず神様は、私たち一人一人が生まれながらに持っている莫大な罪の借金を、完璧に弁済してくださいました。私たち罪人が神の前に負っている罪とはものすごく大きいのです。しかしそれを神はキリストの十字架のゆえに完全に赦されたのです。

私たちが負っている罪の借金がいかに大きいかを示すたとえ話がマタイの福音書の18章にあります。(冒頭に言った、罪を借金に例えるもう一つのたとえ話です)

王様から1万タラントの借金を免除してもらったしもべが、自分に百デナリの借金をおっている別のしもべに対して「借金を返せ」と借金を取り立てる話です。自分は1万タラントを免除してもらったのに、百デナリを取り立てる話です。それを聞いた王様は怒って、そのしもべが1万タラントの借金を返すまで獄吏に引き渡したという話です。

このたとえ話のポイントは、百デナリと1万タラントです。先ほど説明したように、百デナリは百日分の給与の借金です。それに対して1万タラントは、何と16万年分の給与の借金になります。

この王様は神様を表します。実は私たち罪人は神様に対してそれほど莫大な罪の借金を負っていたのです。その借金を、神様は私たちを愛するゆえに、キリストの十字架で全て免除してくださったのです。

私たちは、誰かが自分に対して罪を犯した場合、言葉や行動で傷つけられた場合、相手が1万タラントの借金を負ったかのように「絶対赦せない」というように思ってしまうものではないですか。一方神様に対しては、自分は罪人と認めていても、せいぜい百デナリくらいの借金があるぐらいの感覚でいませんか。逆なのです。

私たち罪人が神の前に負っている罪とはものすごく大きいのですが、神はキリストの十字架のゆえに完全に赦されたのです。キリストの血潮はそれほど価値があるということでもあります。つまり、私たちは皆多く赦された者なのです。

B: 信仰で受け取る

次に、私たちは常に信仰が必要であるということです。信仰で受け取るということです。確かに神様は私たちの莫大な罪の借金を、キリストの十字架の血潮で弁済してくださったのですが、それを自分のものとして受け取るのは、常に信仰です。

今日の話の最後でエス様は女性に言われました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

彼女は遊女であったので、自分の罪の大きさを認識しやすかったかもしれませんが、罪の借金の大きさを知るために遊女である必要はありません。殺人のような重大な犯罪をしている必要もありません。もちろん遊女である人が皆神の前で罪人であることを認めるわけではありません。何をしたか、どんなものであったかは関係ありません。信仰なのです。みことばを信じるかどうかです。

私たちは皆神の前に莫大な借金を負っていたのです。それを神が弁済したのです。それを信じるか信じないかは、私たちの選択にかかっています。霊的な事柄を自分のものとして現実に受け取るのは常に信仰です。

最初からそれほど罪が大きいと理解したり、感じたりすることができる人はあまりいないのではないかと思います。16万年分の給与の借金と言われても、あまりにも大きすぎてピンときません。しかし霊的なことは信じて初めて分かってくるのです

信じて理解が深まってくる、信じてだんだん実感が伴ってくる、信じて今まで見えなかったものが見えてくる、今まで全然罪だと思っていなかったことが罪だと分かる、そのようなことが起きてくるのです。ということで、私たちは多く赦されたと信じることが必要なのです。

C: 信仰と行い

三番目は、真の信仰は行いとして現れてくるということです。

ヤコブの手紙には「彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」とか「行いのない信仰は、死んでいるのです」というフレーズがあります。これは「私たちは恵みと信仰で救われる」ということと矛盾する訳ではありません。真の信仰は行いとなって現れるということであり、

ですから「多く赦されたと信じる者は」必ず行いとなって現れてくるのです、つまり「多く愛するようになる」のです。

今日登場した罪深い女性は、多く赦されたことを受け取り、その感動と感謝で、イエス様を心を尽くして愛しました。

その行動は、まず大変謙遜です。イエス様の足元にいて、足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、足に口づけをし、足に香油を塗りました。足にした行為は彼女の謙遜さを表しています。

でも同時に彼女は大胆に行動しました。彼女がその場へ入っていったとき、おそらくそこにいた人たち皆の視線が彼女に集中したと思います。でも彼女はそんなことはお構いなく、大胆にイエス様のところへ近づきました。

皆さんも、多く赦されたということを心から信じ、受け取っているかを吟味してください。神の前に莫大な借金を負っていたのに、神様が全てを弁済してくださった、これは私たちの信仰生活において最も基本的なことですが、そのことを真に受け取っているか、吟味する価値が大いにあるのではないでしょうか。

多く赦されたということを心から信じ受け取っているのであれば、私たちの行動はより謙遜に、同時により大胆になっていきます。罪責感から解放されていきます。人を責めることも自分を責めることもなくなっていきます。人を裁く、裁き心がだんだんなくなっていきます。

イエスキリストの赦しを受け取ることは、私たちが前向きに歩むための大きな原動力となるのです。多く赦された者は、必ず多く愛するようになるのです。

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