祈り続ける者の祝福(2024年6月23日)

1.はじめに
今月は、新約聖書の福音書の中のイエスキリストが語ったたとえ話を取り上げて、イエスキリストをより良く知るということを目指してメッセージを語っています。

今日は祈りに関するたとえ話が語られているところを取り上げます。ルカの福音書11章の1節から13節までです。祈りがテーマです。祈りというのは、クリスチャン生活に必要不可欠なものですが、忙しい日々の中で、時間を神様のためにさいて、そして静まって、心を神様に向けて、ということがなかなか難しいところがあるのではないでしょうか。

先ほど「永遠にあなたと」を賛美しましたが、「ただ一つのこと私は願う」とありました。ルカの10章にありますが、マルタは忙しく働いていました。一方マリヤはただイエス様の足もとで、イエス様の話に耳を傾けていました。マルタは文句を言いましたが、それに対してイエス様は「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」と言われたのです。私たちはマルタの傾向があると思います。今日もう一度、祈りの大切さを覚えていきたいと思います。

祈りに関するたとえ話は、ルカの福音書11章を取り上げますが、ルカの福音書の18章にもあります。二つのたとえ話と共通することは、しつこさ、粘り強さ、諦めないということです。神への祈りは、しつこく、粘り強く、簡単に諦めないで、祈り続けるということが大切であるということがわかります。私自身の性格は、結構淡白なところがあって、「こんなもんでいいかな」とか「これで十分」などとしてしまう傾向があります。

絶えず祈りなさい。(第一テサロニケ5章17節)

目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。(コロサイ4章2節)

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6章18節)

祈りの大切な要素はいくつかあります。誰に祈るか、どんなことを祈るかということは、もちろん大切です。でも同時に、しつこく、粘り強く、あきらめないで、忍耐強く、絶えず、というようなことを、聖書はとても強調していることが分かります。ということで、今日の聖書箇所を読んでいきましょう。

2.祈りの内容
1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」(ルカの福音書11章1節)

2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」(ルカの福音書11章2−4節)

今日の箇所は、イエス様が祈っておられる中、祈りを終えられたか、または中断された時に、弟子たちが「祈りを教えてください」とイエス様に頼むところから始まります。

イエス様はいつも祈っておられました。ルカの福音書の中だけでも、たとえば「イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると」「よく荒野に退いて祈っておられた」「祈るために山に行き、祈りながら夜を明かされた」「ひとりで祈っておられたとき」「三人の弟子を連れて山に登り、祈っておられると御顔の様子が変わり、御衣が白く光り輝いた」などという記述があります。そしてもちろん、あの有名なゲツセマネの祈りがあります。

この祈りの姿を弟子たちは目の当たりにしていました。そしてイエス様の偉大な業の源泉は祈りにある、または祈りを通して与えられているということを、弟子たちは強く感じていたに違いないのです。そこで弟子たちは祈りを教えてくださいと聞いたのでしょう。

ここでイエス様は、まず誰に対してどのように祈るかということを教えています。全くこの通りに祈れということではなく、この要素を含まれていることが大切であるということです。

「父よ」呼びかけ、天地を創造された神様というのはもちろん偉大な神なのですが、同時に「天のお父さん」と呼べるほど、愛に溢れた親しい関係を求めてくださる方であるということです。

「御名があがめられますように」人々が神を恐れ、敬意を表すことができるようにという祈りです。神様が馬鹿にされたりとか、軽々しく扱われたりとか、私たちは悲しみを覚えます。

「御国が来ますように」御国とは、神の支配ということですが、この場合はもっと具体的な千年王国、メシヤ王国が成就するようにという祈りです。

「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」肉体を養う糧を与えてくださいという祈りであり、また霊的な糧、つまりたましいや霊が養われるようにという祈りです。

「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します」
もちろん私たちはキリストの十字架で私たちのすべての罪が赦されたことを知っています。それでも私たちは日々罪を犯してしまうものです。罪を告白して、罪の力から解放されていく必要があります。また人々の罪を赦すことで、神は私を赦してくださっているという信仰を表明することでもあります。

「私たちを試みに会わせないでください」
私たちは、自分の罪深さや弱さを認識している必要があります。だからこそ、誘惑に陥る状況にならないようにという祈りが必要なのです。

ここまでが誰に何を祈るかということですが、イエス様はここで終わらなかったのです。イエス様は、祈り続けることの大切さを語りはじます。

3.祈りの態度
5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』(ルカの福音書11章5−7節)

8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。(ルカの福音書11章8節)

このたとえ話が伝えていることは明らかで、あきらめずにしつこく頼むこと大切さを語っています。ある人の友だちが旅をしていて、真夜中にそのある人の家を訪ねてきました。イスラエルの日中は大変暑いので、夕方涼しくなってから旅に出るということはそれなりにあったようです。ですから結構夜遅くに途中休むところに着くわけです。しかしその人のうちにはもてなすものがなかったのです。人をもてなすということは、特にイスラエルでは大変重要なのです。

ということでその人が別の友だちのところへ来て、「パンを3つ貸してくれないか。友だちが来たけどもてなすものがないんだ」と頼みました。夜中に訪ねて来られても、面倒臭いですし、家族も寝ているでしょう、普通は明日にしてくれと言いますね。でも頼み続けるならば願いを聞いてくれるのではないかというのが、このたとえ話の趣旨です。

そして、面倒臭いと思っている友だちでさえ頼み続けるならば起き上がって必要なものは与えるのであれば、ましてや私たちを愛してくださる天の父が与えてくださらないはずがないではないか、というのが続く説明です。

9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカの福音書11章9−10節)

11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。(ルカの福音書11章11−12節)

13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカの福音書11章13節)

9節の「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」は「求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさい」という意味です。この前に語られた、あきらめないで頼み続ければ、面倒かけないでくれという友だちでも起き上がって与えるというたとえ話を受けて、神様は遥かにそれ以上の方なのだから、求め続ければ必ず与えてくださるし、捜し続ければ必ず見つかるように助けてくださるし、たたき続ければ必ず開いてくださるのだと、イエス様は言われたのです。

そしてさらにこの後、今度は天の父と地上のお父さんを比べるのです。先ほどは、面倒くさっている友達と神様を比べましたが、今度の地上の肉の父親との比較です。

この地上の父親であっても、魚を下さいと言うときに蛇を与えないでしょう、卵を下さいと言うのにさそりを与えないでしょうと言っています。ガリラヤ湖に海へびがいて蛇と似ているそうです。またさそりが丸くなると卵のようになるようです。でも、たとえ似ていてもそんなものを与えませんよねということです。

悪いものであっても、つまり罪人である地上の父親であっても、子どもに良いものを与えようとするのであれば、なおさらのこと天の父が神の子どもたちに聖霊を与えないはずはないではないかということです。

聖霊は、イエスキリストを信じて受け入れた者の内におられます。すでに与えられています。この聖霊を与えるとは、聖霊の満たしとか、祈りの答えとしての聖霊による力、知恵や、またいろいろな導きのことをさしていると思われます。

4.最後にーなぜ祈り続けるのか
このようにイエス様が強調されたことは、祈り続ける、求め続ける、探し続ける、たたき続けることです。それでは最後に、どうして私たちは祈り続ける必要があるのかということを考えてみたいと思います。神様は私たちの願いをご存知でしょう、少なくても一回祈れば神様は知っているのだから、なぜ祈り続ける必要があるのですか、という疑問が湧いてくるかもしれません。

いくつか理由はあると思います。

例えば、旧約聖書にダニエルと預言者がいました。ダニエル書の10章に、預言者ダニエルが断食して3週間祈っていたということが書かれています。21日目に天使がダニエルのところに遣わされて、言葉を語りました。その内容は、終わりの日にイスラエルに起こることを悟らせるためのものでした。問題は、何で21日も天使がダニエルに遣わされるまでに時間がかかったのかということです。祈りは最初から聞かれていたと、遣わされた天使は言っているのです。

その理由がダニエル書10章の13節に書かれています。ペルシャの国の君とは、ペルシャという国に仕えている堕落天使または悪霊のことです。それがその天使と相対していて、その天使が動けなかったのです。ミカエルという天使が助けに来たので、今自分はこうしてダニエルのところに遣わされたというようなことが書かれています。つまり激しい霊的な戦いがあったということです。祈りは聞けれているけれども、霊的な戦いの中でみこころが実現していくためには時間がかかったということなのです。そして私たちからすれば、祈り続ける必要があるということです。

というようにいくつか理由があると思いますが、私が特に大切だと思うのは、祈り続けることによって、私たちの心が神様の心と一つになっていくためです。私たちが神のみこころを祈るようになるためです。

イエスキリストが十字架を前に祈った、あの有名なゲツセマネの祈りがあります。十字架の死を直前にした、表現できない厳しくて重くて苦しみの中の祈りです。イエス様は三度祈られたことがわかります。近くに弟子たちがいましたが、あまりにも大きな霊的な重圧感のゆえに、弟子たちは目を覚ましていることができませんでした。イエス様は弟子たちも共に祈ってほしかったと思うのですが、イエス様が祈って弟子たちのところに行ってみると弟子たちは寝ていたと書かれています。そのことが、それが三度繰り返されました。

さてこの祈りの中で、イエス様は十字架にかかって神の怒りの杯を飲むことについて祈りました。「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

もちろんイエス様は、十字架で神の怒りの杯を飲むことは神のみこころをわかっていました。でもそれを改めて確認して、本当に自分の心の中に父の願いをピタッと収めるためには、父のみこころを自分の思いや願いとして受け入れるためには、三度祈る必要があったということではないでしょうか。

もう一つだけ例を挙げたいと思います。

旧約聖書にハンナという女性が出てきます。第一サムエルにあります。ハンナは不妊の女性でした。聖書には神がハンナと胎を閉じておられたと書かれています。ハンナの夫がエルカナというのですが、もう一人ペニンナという奥さんがいました。彼女には子どもがいたので、ハンナをいじめるようなことをしたです。ですから余計ハンナは苦しんで祈り続けるのです。

そしてあるとき、こう祈りました。「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。」

ここに神のみこころがあったのです。ハンナが神様のみこころを受け取ってそれを祈れるようになったのです。神の心とハンナの心が一つになって、その祈りが実現していくのです。こうしてサムエルという偉大な預言者でもありさばきつかさでもある人物が誕生しました。

ベストを与えてくださる神様のみこころと、私たちの思いや願いが近づいていく、そのためには私たちは祈り続ける必要があるのです。

神の心に近づいていくために、私たちは祈り続けます。ですから、祈り続けるといっても、それは単に「お願いします」「お願いします」「お願いします」だけではないのです。苦しみや悲しみや痛みを注ぎ出すこともあるでしょう。どうしても納得できないことを聞き続けることもあるでしょう。そのようなプロセスを通して、私たちの祈りが神のみこころを祈るように変えられていくのです。むしろ、神様が私たちをご自分の心に近づけてくださるのです。そこに祈り続けることの醍醐味があります。

第二歴代誌16章9節にこうあります。
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、ご自分の心と全く一つになっている人々に御力を表してくださるのです。

もちろん神様は私たちのあらゆる祈りや願いを聞いておられます。しかし同時に、私たちの思いや心が神様の思いや心に近くなっていく、ますます一つになっていくことを神様は願っていることを覚えましょう。そこに神様のみわざが現れていきます。そのことを目指して、私たちは祈り続けていきましょう。

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