聖霊に導かれていく教会(2024年5月26日)

1.はじめに

今月は教会 というテーマで語っています。今日は新約聖書の使徒の働きに出てくるアンテオケ教会を取り上げて語りたいと思います。そのアンテオケ教会の誕生と成長の箇所を通して、私たちサンディエゴ希望教会も誕生したばかりですから、そこから導きや励ましを受け取っていきたいと思います。

今日の聖書箇所は使徒の働き11章19節から26節までと13章の1節から3節までです。前半の使徒の働き11章19節から26節まではアンテオケ教会が誕生した経緯の描写がなされています。そして13章はそのアンテオケ教会が新しいフェーズを迎えて、いよいよアンテオケ教会を拠点とした世界宣教がスタートしていくところです。パウロの宣教旅行が始まっていくのです。使徒の働きの後半のほとんどは、第一次から第三次にわたるパウロの宣教旅行における話ですから、そのスタートということで、大変重要な箇所です。

私たちも誕生したばかりの教会ですが、ビジョンは「送り出す教会」です。日本に福音が広がっていくことを見据えて、私たちの教会から宣教師や教会開拓者が送り出されていくというビジョンは、最初から、常にもって前進していきたいと思います。

2.迫害の中の宣教拡大

19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。(使徒の働き11章19−21節)

まず19節で「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は」とあります。使徒の働きの7章にステパノという人が殉教の死を遂げる話があります。そして8章の始めのところに「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり」とあります。つまりステパノの殉教がきっかけとなって、エルサレムの教会に迫害が起こりました。使徒たちはエルサレムに残ったのですが、多くの信者は、その迫害のためにユダヤとサマリヤの諸地方に散らされていきました。

しかし散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いたことによって、キリストの福音が広まっていくことになったわけです。8章ではピリポの伝道により多くのサマリヤ人がイエス様を受け入れました。10章で百人隊長コルネリオという人物がイエス様を受け入れて、初めて異邦人が福音を受け入れたのです。

つまり迫害という、迫害は福音宣教にとっては一見マイナスな要素であるけれども、その迫害によって散らされていった人々がみことばを宣べ伝えることによって、むしろ宣教が拡大していきました。このことは歴史的にも実際そうなっています。迫害によって、むしろ宣教が拡大していく。迫害によって、むしろ信者の信仰が強められていく。このような結果をもたらしたのです。

初代教会の使徒たちをはじめ信者たちは、様々な困難の中でも、何よりも福音を語れるように祈りました。

29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。(使徒の働き4章29節)

「いま彼らの脅かしをご覧になり」彼らの脅かしを鎮めてください、彼らの脅かしをあなたが粉砕してください、脅かしがなく自由に語れる状況にしてください、などとは祈りませんで。たとえ脅かしがあっても、いやむしろ困難な状況であるからこそ福音を大胆に語れるようにと祈ったのです。

パウロはコロサイ人への手紙の中でこう記しています。

3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。4 また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。(コロサイ人への手紙4勝3−4節)

パウロがこのコロサイ人への手紙を執筆したとき、ある程度自由はあったと思いますが、それでも牢に入れられていました。しかしパウロは牢から出れるように、もっと自由の身になって福音を語れるように祈ってくれとは言いませんでした。牢に入れられても、キリストの福音を大胆に語れるように祈ってくれと頼んでいるのです。

それほど彼らにとってキリストの福音というものが、文字どり良い知らせであったということです。そして、自分は福音を語るために生かされている、また神様はどのように状況にあっても、キリストの福音を語れる機会を備えてくださっているという、使命感と神への信頼があったということです。

私たちにとっても、福音伝道には様々な困難があります。だからこそ、私たちも問われます。様々な困難があっても、それでもどうしても伝えたいそれほど福音は良い知らせになっているのか。また知らせなければならない神様からの使命が与えられているかどうか。また伝えるべき人々も神によって備えられているという神への信頼があるかどうか、ということです。

こうして、迫害の中でもキリストの福音が広まっていきました。しかしそれでも、福音を語る上での大きな壁が存在していました。それがユダヤ人と異邦人との壁です。初期の教会の信者というのは皆ユダヤ人です。彼らにとってキリストの福音はユダヤ人だけのためであって、異邦人に福音を語るということは考えもしなかったことだったのです。それほど、彼らの固定観念は強かったのです。

しかしその壁が打ち破られるときが来ました。散らされた人々がアンテオケまできた時に、 20節に「ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。」とあります。このキプロス人とクレネ人というのは、キプロス出身のユダヤ人、クレネ出身のユダヤ人という意味です。いわゆる離散の地のユダヤ人、ディアスポラで、何らかの事情でエルサレムに住んでいたのですが、迫害で自分の故郷へ行く途上にありました。彼らは、ギリシャ語を話すユダヤ人と呼ばれていて、いわゆるヘブル語を話すユダヤ人とは違って、ギリシャ文化への理解があったのです。

また語りかけた異邦人ですが、おそらく彼らは、いわゆる神を恐れる異邦人と言われる、ユダヤ教親派の異邦人と考えられます。彼らはユダヤ人会堂に来ていて礼拝を捧げているわけです。とすると、異邦人とは言え、彼らとは接点がありました。語ったキプロス人やクレネ人も、ギリシャ・ローマ文化に対して理解があり共通の土台がありました。また語った場所も会堂という接点がありました。これらはすべて、神様による備えがあったということができます。大きな壁であったにも関わらず、神様の導きで、彼らはギリシャ人に語ったところ、多くのギリシャ人が、つまり異邦人がイエスキリストを信じ受け入れたのです。

21節に「主の御手が彼らとともにあったので」とあります。私たちには福音を語っていく使命と責任があります。でもその人がイエス様を受け入れるかどうかは、人間の力ではできません。私たちは福音は伝えるけれども、どうなるかを神様に御手にゆだねます。ここでは「主の御手が彼らとともにあったので」、多くの異邦人がイエス様を受け入れました。そうなると、教会は次のフェーズを考えていく必要があります。教会が建て上がっていくためには何が必要かを考えていく必要があるのです。ということで22節から26節までです。

3.弟子訓練

22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を固く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。(使徒の働き11章22−24節)

25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。(使徒の働き11章25−26節)

アンテオケで、多くの異邦人がイエス様を受け入れました。その知らせがエルサレム教会に伝えられました。ユダヤ人と異邦人、全く異なる文化的な背景を持つ人々が一つの共同体をなすということになるわけです。

ちなみにアンテオケは、当時のローマ社会の中では三番目に大きな都市でした。最も大きいのはローマ、次はアレキサンドリアです。アンテオケは三番目でした。貿易港があり、地中海の玄関口とも言われたところです。いろいろなものが入ってきます。経済の繁栄に伴ってお金の動きがあります。性的な不品行も横行しています。ギリシャ的な芸術や哲学の影響もあります。東洋の神秘的な思想なども入ってくる。アシュタロテ神殿があり偶像礼拝も盛んでした。

そのような中で、特にローマ・ギリシャ文化の影響を受けている異邦人が、大量に教会の共同体に加わると、教会に混乱をもたらす危険性があります。そこでエルサレムの教会はバルナバを派遣しました。

23節でバルナバは「神の恵みを見て喜び、みなが心を固く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。」とあります。

まずバルナバは「神の恵みを見て喜びました」。全く異なる文化的な背景を持つ異邦人が一挙にたくさん救われたのです。教会は人々の喜びで溢れていたと思いますが、多少混乱もあったでしょう。でもバルナバが見たものは神の恵みでした。

そしてバルナバは「みなが心を固く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。」英語のKJ Vは、they should cleave unto the Lord ですから、「揺るがない心で主にすがっているように」というように訳せます。

イエス様を信じたばかりの人々に対して、バルナバは彼らの内側が大切なのだと言っています。イエスキリストとの関係にとどまる、イエスキリストとの関係を築くということが大切であるからそうしなさいと励ましました。

繰り返しになりますが、全く異なる文化的背景を持っている異邦人がたくさんイエス様を受け入れて教会のメンバーになったのです。彼らの外側を見るならば、えっと思うことや、こうした方がいいというようなことがたくさんあったに違いないのです。

私たちも、誰かがイエス様を受け入れると、外側に現れる態度や行いが気になって、こうしなさいああしなさい、こうしてはだめああしてはだめと指摘する傾向があるのではないでしょうか。

もし彼らの変わるべきものがあるとするならば(私たちは誰でもありますが)、彼らがイエスキリストとの関係に留まり、彼らのイエスキリストとの関係が築かれていく中で、自ずと、神によって変えられていくわけです。言葉づかい、態度、行動、生き方、ライフスタイル、人生観、世界観も、イエスキリストとの関係に基づいたものになっていきます。私たちの外側は、私たちの信仰を通して神の恵みによって変えられていくのです。ですからバルナバは一番大切なことを言って励ましたのです。「みなが心を固く保って、常に主にとどまっているように」ということです。

神の恵みもそうですが、バルナバが見ているのは、関心があるのは、目に見えない世界です。第二コリント4章18節にあるように「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます」とあります。まさにバルナバが目を留めているものがそうなんです。目に見えるところに振り回されず、しっかりと神の思いに目を留めているのです。

バルナバは考えたと思います。異邦人が教会に加わるということは大きなインパクトがあるので、教会が健全に建て上がっていくためには、自分一人では限界があるということです。そこであのサウロを呼んでこようと思ったのです。彼はのちにパウロと呼ばれるようになりますが、サウロこそ適任だという確信のもと、バルナバはサウロを探しにタルソへ行きました。

サウロがタルソへ行ったのは、使徒の働き9章30節です。使徒の働き9章ではサウロがどのようにしてイエスキリストに出会い、信じたかが書かれています。彼はイエス様を信じた後、180度生き方が変わって、教会を迫害していたものが大胆にイエスキリストを語るようになりました。そのためにユダヤ人に殺されそうになりました。結果的には生まれ故郷のタルソに送り出されました。そこからこの時まで、年代を追っていくと、少なくても5年以上は経過していたと思われます。

バルナバはサウロを呼んできてから1年間、いわゆる弟子訓練が、このアンテオケ教会の信者たちに施されました。

「大ぜいの人たちを教えた」とあります。そのこと以外は、教会でどのような弟子訓練が施されたのかは分かりません。しかしその結果どうなったかということは、想像がつきます。それは「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」と書いてあるからです。

「キリスト者」はキリストのような人ですが、元々は軽蔑した、馬鹿にした呼び名であったようです。キリストに取り憑かれてしまった人という感じでつけられたのではないかと思います。何かといえばキリスト、何につけてもキリストだからです。でもそれほど、アンテオケの信者が、弟子訓練を通してキリストとの関係が築かれて、生活のあらゆる場面においてもキリストとの関係が滲み出てくるというか溢れてくる、キリストの香りが漂う、教会の外から見ていてもそれがわかるということだったのです。それほど弟子訓練を通してイエス様との関係が築かれていったということがわかります。

このようにして、アンテオケの教会が誕生し、建て上げられていきました。少し飛びますが、使徒の働き13章1節から3節までを読みます。今日の最後の聖書箇所です。

4.世界宣教へ

1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。(使徒の働き13章1−3節)

ここから新しい展開が始まります。福音宣教がローマ世界へ拡大していきます。つまり、いわゆるパウロの宣教旅行が始まるのです。この後、使徒の働きは、ほとんどがこのパウロの宣教旅行においての様々な出来事が記されていきます。

その宣教旅行の拠点がアンテオケの教会であったわけです。地域教会はそれぞれが性格も異なるし、また使命や役割も異なります。地域教会どおしは決して競争相手ではありません。それぞれがキリストのからだの一部として、互いに助け合ったり、補いあったりしていくものです。

その地域教会の性格や使命はどのように色付けされていくのでしょうか。いろいろな要素があると思いますが、私は、一番大切な要素の一つが、神様がどのような人をそこに集めてくださっているのかということではないかと思います。集められている人々の性格もあると思いますし、バックグラウンドとか、賜物や体験、どんなところに重荷があるのかなどです。そのように集められている人々によって、教会自体の性格や指名が方向づけられるのではないでしょうか。私たちは偶然集まっているわけではありません。私たちは、神の計画や神の御手の中で、こうして集められているのです。

このアンテオケの教会は、どのような人が集められていたのでしょうか。今読んだ13章1節に、誕生して成長していく中で5人のリーダーがいたことが分かります。

まずバルナバです。聖書にあるように「彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人」でした。また「慰めの子」というニックネームが与えられています。彼には人を慰める賜物がある素晴らしい人格の持ち主だったのです。今日の箇所を読んだだけでも、彼はエルサレムから派遣され、異邦人信者を励まし、サウロを探して呼んできて、共に弟子訓練をし、そしてこれから聖霊の導きに従って自ら宣教にいきます。いつも聖霊に満たされ、聖霊の導きに忠実であった人物です。

次が、ニゲルと呼ばれるシメオンです。彼はエチオピアから来た人ではないかとも言われています。

次がクレネ人ルキオです。北アフリカの出身で、ギリシャ語を話すユダヤ人と呼ばれる人です。

また、国主ヘロデの乳兄弟マナエンとあります。国主ヘロデはヘロデ大王の子どもヘロデアンティパスで、バプテスマのヨハネの首をはねた人物です。そのヘロデアンティパスと同じ乳母のもとで育ったということです。似たような環境で育っても、かたやアンティパスはキリスト者を迫害する者となり、かたやマナエンはキリストの弟子となりました。

そして最後がサウロで、のちのパウロです。

このように実にバラエティに富んでいるリーダーたちです。多様な背景を持っているリーダーたちが、信者たちに仕えていました。国際色豊かなリーダーたちです。世界宣教の拠点となっていく教会としては、とてもふさわしいとは思いませんか。神様が集めてくださっている人によって、その教会は色付けられていくのです。

この時、アンテオケの教会は次の導きを祈っていたと思います。キリストの弟子が育ってきた段階で、神様はどんなことを思われているのだろうか、何を願われているのだろうかということを真剣に考えて祈っていたと思います。そしてあるとき、聖霊が語られて、バルナバとサウロを宣教に送り出していくことが示されました。

バルナバとサウロは、このアンテオケの教会にとって、まさにこの教会の建て上げに用いられた重要な人物であり、このときのリーダーです。彼らを送り出すということは、自分の教会だけのことを考えたら、大きなチャレンジです。でも彼らは、聖霊の語りかけに従いました。聖霊に導かれていきました。それは何よりも、キリストの福音を多くの人に届けたいという、また祝福を広げていきたいという、聖霊が与える神の思いや願いをいつも心に留め、神の思いや願いに生きていたからに違いありません。

5.最後に

私たちも聖霊に導かれて誕生したばかりの教会です。引き続き常に聖霊の語りかけに耳を傾け、聖霊の導きに従っていくことを求めていきたいと思います。

聖霊に従うことの反対が肉に従うということで、肉というには人の生まれつきの罪深い性質のことを言います。聖霊に従うか、肉に従うかは、まず何よりも、私たちの「考え」や「思い」に現れてくるのです。

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(ローマ人への手紙8章5節)

私たちの心が聖霊に支配されているならば、私たちの思いは神様に向かいます。神様の心を知ろうとします。神様は何を思い、何を願っているのかをいつも求めていくようになります。

神様が何を思っておられるのか、神様が何を願っておられるのかを聞いていくことと、「自分は何をしたらよいのか、みこころを教えてください」と求めるのとは違います。前者は神の心に焦点があるのに対して、後者は自分の行いに焦点が当たっているからです。

私たちは純粋に、神の思い、神の願い、そして神様を知ることを求めていきましょう。礼拝、学び、祈り会、そして日常生活のあらゆる場面で、神を求めていくのです。

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ人への手紙8章14節)

私たちは、神に愛されている神の子どもです。愛されている神の子どもにとって、最大の関心は、神様の思いや願い、また神様の心ではないでしょうか。ですから私たちは、

神様の思いや願いをいつも心に留めて、聖霊に導かれていくのです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です