【はじめに】
福音宣教は教会に与えられた大切な使命です。教会はキリストのからだです。皆が同じように福音を運ぶ足である必要はありませんし、皆が同じように福音を宣ベる口である必要はありません。でも福音宣教のために、お互いがお互いを助けあいおながら、教会として、キリストのからだとして、福音宣教に邁進していきたいです。
【今日の聖書箇所】
14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」 16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。 (ローマ人への手紙10章14―16節)
【文脈】
ローマ書のテーマの一つは、信仰による義です。救われるための神の義は、恵みと信仰で与えられます。私たちの行いによって神の義を獲得するのではありません。
ローマ書の9−11章までは主にイスラエルのことが語られています。神はイスラエルを見捨てられてしまったのかという問いかけに、もちろんそうではないと、このローマ書の著者であるパウロは語ります。そのイスラエルについて語られた文脈の中で、10章の前半で語られたことは、イスラエルは神に熱心だったけれども、それは知識に基づいたものではなかったということです。
イスラエルは、神に関する情報はたくさん持っていました。でも神を人格的に知ることはなかったのです。情報はあったけど神の真理に到達しませんでした。情報はあったけどキリストを通して神の知ることはなかったのです。そして多くのユダヤ人は今もそのような状況にあります。その意味で彼らは神を知らなかったので、神の義というのは与えられるものであるにもかかわらず、良い行いを熱心にして、神の義を獲得しようとしました。でも本当は、私たちの信じる神様は私たちの必要を私たちのすぐ近くに備えてくださる方です。10章の8節には「みことばはあなたの近くにある」と語られています。神の義は信じて告白するだけで与えられるのです。なんと良い知らせでしょうか。でもイスラエルは信じなかったのです。というところで今日の話になります。
【良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ】
14節から15節は、ある反論を想定して語られています。確かに神の義はすぐ近くにあり良い知らせかもしれない、でもそれを伝えてくれなかったら、信じることはできないではないかということです。
その反論に対するパウロの答えが16節の「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」です。これはイザヤ書52章7節を引用で、意図するところは「いや、良い知らせはすでに宣べ伝えられていた」ということです。
7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52章7節)
神様は旧約聖書の時代、様々な人々を送って、良い知らせを伝えました。特に解放の知らせを伝えました。そして何よりも大切なのは、神ご自身であるキリストが遣わされて、罪の束縛からの解放という良い知らせを伝えてくださったことです。旧約聖書はメシヤ預言、キリスト預言で満ちています。
その意味で、美しいと言われる、良い知らせを伝える者の足とは、本質的にはイエスキリストの足です。父なる神様にとって、イエスキリストの足こそ、良い知らせを伝える者の美しい足です。そして教会はキリストのからだであり、キリストの福音を運び宣べ伝える足でもあります。神様の目からは美しいのです。
【私たちの聞いたことを、だれが信じたか。】
さて、良い知らせを伝える者の足を美しいと、神が見てくださることは、私たちにとって励ましですが、同時にチャレンジもあります。なぜなら、良い知らせですが、多くの人々はなかなかそれに対して心を開いてくれません。ある人は拒絶します。ある人は無視します。ある人は反発します。そこに待ち受けているのは、苦難、困難、チャレンジです。そのことが続く16節に書かれています。
16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。
ローマ書10章15節ではイザヤ書52章が引用されていましたが、この16節では、イザヤ書の53章が引用されています。この章は、イエスキリストの十字架の受難を預言し、描写する、とても有名な箇所です。
1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53章1−3節)
今読んだイザヤ書53章1節が、ローマ書10章16節で引用されていました。
イザヤ書52章では、なんと美しいことよと語られていましたが、この53章では、蔑まれ、のけ者にされ、悲しみなど、とても対照的です。先ほども言った通り、この53章は、受難のしもべと呼ばれる、イエスキリストの十字架での苦難を描写しています。
イエスキリストを信じている私たちからすれば、これは明らかにキリストの十字架を描写していることが分かります。でもこの箇所は、ユダヤ人の耳を最も固く閉じさせる聖句の一つであると言えます。ユダヤ人からすれば、メシヤとは勝利の王でしかありません。受難のしもべとしてのメシヤは否定します。自分たちの罪のためにメシヤは受難のしもべとならなくてはいけなかったということを、ユダヤ人は認めたくないのです。
ですからパウロの結論は、キリストに関する良い知らせは、旧約聖書において啓示されているし、語られたということです。しかし多くのユダヤ人が信じないのは、良い知らせが語られないからではなく、彼らの心がかたくなであるからです。
【ローマ書10章15節と16節、イザヤ52章と53章の対比】
今日のメッセージの中で注目してほしいことはローマ書10章15節と16節との対比です。福音宣教は素晴らしいのだけれど、それが待ち受けているのは、試練であり苦難であるということです。
そしてそのベースとなったイザヤ書52章と53章にも同様の対比がありました。
このような対比ないしは展開が、他にも見られます。それは新約聖書の中で、マリヤが主イエスの足に香油を塗る場面です。
3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった、家は香油のかおりでいっぱいになった。(ヨハネの福音書12章3節)
イエスキリストは、十字架にかかる直前にベタニヤという村に滞在しました。イエスキリストの語ることを悟ったマリヤは、香油をイエスキリストの葬りの日のためにとっておいて、それを足に塗りました。この香油を足に塗ったというのは、イエスキリストこそ、良い知らせを伝える者の足であることの、告白的行為と言えるのではないでしょうか。この後イエスキリストは十字架に向かって最後の歩みをしていきます。
【良い知らせを伝える足は十字架へ向かう足】
これまで述べてきた対比や展開からどのようなことが言えるのでしょうか。良い知らせを伝える美しい足とは、いくつかの意味で、十字架へ向かう足であるということです。
まず第一に、イエスキリストこそが良い知らせを伝える美しい足であり、自ら私たちの罪のために十字架に向かってくださいました。
第二は、良い知らせを伝える美しい足とは、人々をキリストの十字架へ導く足です。
キリストの十字架なくして、つまり罪のメッセージなくして、良い知らせはありません。キリストの十字架を伝えていく、罪を語るということはチャレンジです。多くの人は聞きたくありません。でもそこにこそ、良い知らせの真髄があるのです。私たちの罪のための十字架を通してのみ、私たちは真に神の愛を知り、神の聖を知り、神の力を知ることができるのです。
第三は、良い知らせを伝える美しい足とは、福音を語る者、つまり私たち自身が十字架のもとに下る足です。
福音宣教はとてもチャレンジです。とても自分の力では全くできないということを思い知らされます。福音宣教は神の働きです。その神の働きに私たちが召されている、神の働きにただ神の恵みによって私たちは預からせていただいているのです。
自分自身の熱意や力で進めていこうとすると必ずつまずき、また砕かれます。
自分の無力さ、弱さ、罪深さを自覚し、十字架のもとに下る時、私たちははじめて、神の導きや力を体験します。このように良い知らせを伝える美しい足とは、福音を伝える私たちが、十字架に向かう足です。
【最後に】
その美しいと呼ばれる福音宣教に召しに、教会は預かっています。美しい福音宣教に教会は召されています。福音宣教は困難でチャレンジであるからこそ、また喜びも大きいのです。福音宣教こそ、主にあって喜びと困難を共に分かち合える機会です。私たち一人一人が霊的に成長する機会でもあります。福音宣教を通して、教会が建て上がっていくのです。
良い知らせを伝える美しい足とは、十字架へ向かう足です
(1)キリストは私たちの罪のため自ら十字架に向かわれた。
(2)福音伝道は、人々をキリストの十字架へ導く足です。
(3)福音伝道は、私たちをキリストの十字架に向かわせます。