キリストの花嫁である教会(2024年5月19日)

1.はじめに

今日はペンテコステ礼拝 です。イエスキリストが十字架に付けられて死なれたのは今から約二千年前のイスラエルですが、ちょうど過越の祭りのときでした。その三日後の初穂の祭りの時にイエス様は復活され、そして過越の祭りから50日目のペンテコステの祭り(五旬節、七週の祭り)の時に聖霊が降りてこられて教会が始まりました。今日はその教会の誕生を覚えて祝うペンテコステ礼拝です。今日のメッセージは直接その箇所は取り上げませんが、今月は教会について語っているので、教会の誕生も含めて教会というものに対して思いを馳せていきたいと思います。

今日の聖書箇所はエペソ人への手紙は5章21節から33節までです。エペソ人への手紙は、5章21節から6章9節まで、夫婦関係、親子関係、当時の社会における主人と奴隷の関係と扱っています。今日の箇所は夫婦関係の話ですが、その中でキリストと教会が語られているのです。キリストと婚約関係にある教会は花嫁と呼ばれます。婚姻はまだですが、実質的には婚姻関係は結婚関係と同じです。ですから今日の聖書箇所では、夫婦関係になぞらえながら、キリストと教会との関係が語られているのです。

2.夫婦関係とキリストと教会との関係

21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのおとにおいて、夫に従うべきです。25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(エペソ人への手紙5章21−25節)

天地が創造されて、人間が創造されて、最初に作られた人間関係、それが実は夫婦関係です。最初にアダムが創造され、そして次に神様は「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と語られてエバを造られました。

そして更に興味深いのは、神様がご自身と人間との関係とを語るとき、夫婦関係になぞらえていることです。キリストと教会との関係も夫婦関係ですが、神様とイスラエルとの関係も夫婦関係になぞらえて神は語るのです。それほど夫婦関係はある意味神秘であり、深いものであり、チャレンジではあるけれども、夫婦関係を通して神様を知っていくというダイナミックさがあるのです。

その夫婦関係を語る前に大切な聖句が21節にあります。それが「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」です。妻は夫に従いなさいと聖書は言いますが、もしこの関係が一方的な主従関係であるならば、互いに従いなさいとはどういうことでしょうか。ちょっと矛盾に聞こえませんか。

確かに聖書は、妻に対して「夫に従いなさい」、一方で夫に対しては「妻を愛しなさい」と命令は異なります。しかしよく考えてみると、「従いなさい」も「愛しなさい」も、自分ではなくて相手を尊重する、自分ではなくて相手を第一とするという点では同じです。

この従うということと愛するという関係は、父なる神様と子なるキリストとの関係に、そもそも見られるものです。

19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子に示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたに驚き怪しむためです。(ヨハネの福音書5章19−20節)

父なる神様と子なるキリストとの関係は相互の関係であって、一方的な主従関係や支配関係ではありません。父なる神様が愛のイニシアティブをとると言われていますが、あくまでの父と子は同格なのです。同じように夫婦関係も、一方的な主従関係や支配関係ではありません。自分ではなくて相手を尊重する、自分ではなくて相手を第一とするという意味で、互いに従うことでもあり、互いに愛し合うことでもあるのです。

そして22節から具体的に夫婦関係について語られていきますが、ポイントは、夫婦関係はキリストと教会との関係がモデルだと言っていることです。

23節では、キリストは教会のかしらであるように、夫は妻のかしらであると語ります。24節では、教会がキリストに従うように、妻も夫に従うべきですと言っています。そして25節では、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、夫は自分の妻を愛しなさいと命令するのです。夫に対しても、妻に対しても、キリストと教会との関係を知り、またそのことを覚えて、夫婦関係を築きなさいということが語られているのです。

ですから私たちは、イエスキリストは教会をどのように見てくださっているのか、何をしてくださったのか、そしてこれからどのようにしようとされているのか、ということを知ることが大切なのです。ということで次の26節から30節までを読みます。

3.花嫁とするためのキリストの愛と献身

26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。(エペソ人への手紙5章26−30節)

ここで語られているのは、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげたのは、栄光の教会を自分の前に立たせる、つまり婚姻のために教会を聖なる花嫁として立たせるためであったということです。そしてキリストが教会をご自分の花嫁とするということは、教会をご自分のからだとすることと同じなのです。つまりご自分と一つとしてくださるということです。

人間のからだは本当に不思議ですね。それぞれの器官は、つながっているから命が流れていきます。器官が切り離されたら即死を意味します。器官が切り離されて生きていくことはできません。またつながっているから、それぞれのからだの器官は最大限にその機能を発揮し、そしてお互いに作用を及ぼし合います。他の器官と連携し合うその仕組みというのはあまりにも複雑で神秘で、神の創造したものであるとしか考えられません。

キリストの花嫁である教会はキリストのからだであり、教会にとってキリストとつながっていることが命です。このことを夫婦関係になぞらえて「自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」、つまり夫にとって妻は自分のからだの一部分であり切り離すことはできない、一体であると語っています。

キリストは、教会をご自身の花嫁とするために、どのように教会を愛し、どのように教会のためにご自身をささげてくださったのでしょうか。

まずキリストは神でありながら人となってくださいました。つまり受肉です。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えませんでした。 ご自分を無にされました。仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。ピリピ人への手紙2章に書かれている通りです。

またイエス様は、私たちと一つになるためにバプテスマを受けられました。そしてイエス様は、私たち罪人たちの中に罪人として数えられました。罪の全くないお方が、私たちと一つになるために罪人に数えられ、私たちの代わりに十字架でご自身をささげられたのです。

このようにキリストがご自身をささげられたのは、婚姻のために教会を聖なる花嫁として立たせるためであったのです。そしてキリストが教会をご自分の花嫁とするということは、教会をご自分のからだとすることと同じであり、私たちと一体となるためです。


4.結婚の奥義

31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ人への手紙5章31−33節)

結婚は奥義です。どういうことかというと、結婚は、キリストと教会の関係、つまり花婿キリストと花嫁教会との関係を反映するために神が計画したものだということです。

ですから、聖書は夫婦関係について「従いなさい」「愛しなさい」という命令を語っていますが、それを単に義務のように、しなくてはいけないからと考えるならば、あまりにも寂しいことです。

「従う」また「愛する」とは一つになることのあり方です。先ほども挙げましたが、そもそも父なる神と子なるキリストの関係がそうでした。父なる神が子なるキリストを愛し、そして子なるキリストが父なる神に従うという関係です。そしてイエス様は「わたしと父は一つです」と言われました。そして神様の大きなビジョンは、花婿キリストと花嫁教会が一つになることなのです。そのためにイエスキリストは、教会のためにご自身をささげられたのです。

5.最後に

いつかイエス様は「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、 ご自分の前に立たせる」のです。それはイエスキリストの再臨の時に実現します。キリストと花嫁教会の正式な婚姻の時です。

今日の教会を見るならば、しみやしわがたくさんあり、また傷だらけかもしれません。しかしイエスキリストは、そのような教会を養 い育てて、また整えて、やがてはご自分の前に栄光の教会として、花嫁として立たせます。なぜなら、それが神の永遠のご 計画だからです。この神のご計画を、花嫁である私たちはよく理解し、絶えず心に刻んで歩む必要があります。

花嫁である教会にとっては、花婿キリストとつながっているということが命であり、またキリストにあってお互いがつながっていくことが命であるということを覚えましょう。

一つとなるために必要なことはイエス様が模範を示されました。イエス様は神でありながら人となられました。バプテスマを受けられました。そして罪人に数えられました。罪のない方が罪人のようになられました。

私たちが一つになれるところはどこでしょうか。私たちはそれぞれ皆違います。性格も、気質も、歩んできた人生の経験も、能力も、財産も、皆それぞれ違いがあります。しかし完璧に共通なところがあります。それは私たちは皆神の前に罪人であるということです。この位置に罪のないイエス様が下りてきてくださったのです。

私たちは常に神の前に罪人であることを覚えたいと思います。それは私たちがキリストにあって自分に死ぬということでもあります。しかしそこにこそ、キリストの命が流れ、私たちがキリストにあって一つとなるところなのです。

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