31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(ヨハネの福音書9章31−33節)
イエス様が生まれつき目の見えない者の目を開いた話の続きです。パリサイ人などのユダヤ人宗教指導者たちは、イエス様が安息日にこの御業を行ったため、誰が目を開いたのか、どのようにして目を開いたのか、執拗に追求しました。
目が開かれた者は、正直に「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私は今見えるのです。」と述べました。するとパリサイ人たちは彼の両親を追求しました。しかし彼の両親は、会堂から追放されることを恐れて、彼をサポートはしませんでした。するとパリサイ人たちは、再び目が開かれた者のところに来て、安息日を守らないイエス様が罪人であることの言質を取ろうとして、さらなる尋問を続けたのです。
そこで語った言葉が、冒頭で挙げた31節から33節の言葉です。目が開かれた者は、パリサイ人たちを恐れることなく、イエス様が自分の目を開き、イエス様が神から出ておられるという信仰を明確に告白したのです。
パリサイ人たちの追求、両親はサポートしないという試練の中で、むしろ彼の信仰が強くされていくことを見ることができます。私たちも、この世で歩んでいく限り様々な試練や苦しみに直面します。しかし私たちは、自分で自分の信仰を支えているのではありません。神が私たちの信仰を支えてくださっているのです。そして私たちの信仰を育てるのも、また神様ご自身なのです。