気前のいいぶどう園の主人(2024年6月16日)

1.はじめに

今月は、新約聖書の福音書の中のたとえ話を取り上げて、イエスキリストをより良く知るということを目指してメッセージを語っています。

たとえ話の題材は非常に身近なものです。誰でもイメージできるものです。

一方で、話の内容は「絶対にあり得ない!」というような内容が多いのです。これまで語ってきたたとえ話もそうですね。「良きサマリヤ人のたとえ話」を語りましたが、当時はユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲です。そのサマリヤ人が瀕死の状態にあったユダヤ人に近づいて行って、至れり尽くせりの看病をして、お金まで払って、というようなことは、当時の状況からすれば絶対あり得なかったわけです。

先週話した「借金のある二人の人のたとえ話」では、50デナリと500デナリの借金がある二人の人たち、今でいうと50万円と500万円の借金のある二人の人たちがいましたが、二人とも返すことができなくなってしまったのです。そうしたら金貸しが二人とも借金を免除しました。この世の中にはそんな甘い話は普通ないですね。ほぼ絶対にあり得ないですね。

このように、福音書に出てくる「たとえ話」は、絶対にあり得ない!という内容が多いです。しかし、だからこそ私たちはそこに聖書の神の世界の真理を見出すのです。天地万物を創造した神様に関することは、つまり霊的な世界のことは、私たちの理解や思いや常識をはるかに超えています。聖書の中で神ご自身が語っています。「わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。」

私たちは、神様を自分の古い思考やイメージの中に閉じ込めてしまっていることがあります。たとえ話は、そのような私たちのこの世の中で凝り固まった考え方や固定観念を打ち砕いてくれるものなのです。

ということで今日のたとえ話もあり得ない話ですが、でもだからこそ、そこから私たちは聖書の神はどういう方であるかを知って、また一歩神様に近づきたいと思います。

2.たとえ話の背景

今日語るのは「ぶどう園の労務者のたとえ話」です。この話はマタイの福音書の20章でイエス様が語りましたが、それが語られた背景が大切なので、まず19章の27節から30節までを読みます。

27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」(マタイの福音書19章27節)

28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイの福音書19章28−30節)

今読んだ箇所からさらに遡るのですが、19章の真ん中ぐらいのところに、金持ちの青年がイエス様のところに来て「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と聞きく場面があります。それに対してイエス様は「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。」と答えました。

私たちは、永遠のいのちとか救いとかいうものは、私たちの良い行いで得ることができるものではないことを知っています。私たちの基準で、私たちの力や頑張りや知恵で到達できるようなレベルの世界ではないということです。永遠のいのちや救いはただ神の恵みによって与えられます。与えられなかったら私たちは到達しないということです。

それでは神から与えられるものをどのようにして受け取るのでしょうか。それは信じることだけです。私たちはただ信仰で受け取るだけです。ですから、ここでのイエス様のポイントは、「なぜ良いことについて聞くの。大切なのは良い方なんだよということです。その良い方、つまり良いものを与える方、永遠のいのちを与える方である神を信じることだけなんだよ」ということを伝えているのです。

結局この金持ちの青年はイエス様のことを受け入れることができずに去っていきます。そこで弟子の一人であるペテロがイエス様に聞きました。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」

実は、金持ちの青年に対してイエス様は、良い行いでは永遠のいのちを得ることができないことを理解させるために、一つのチャレンジを与えたのです。それは「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」というものでした。もちろん、この青年が持ち物を売り払って貧しい人たちに与えたとしても、それで永遠のいのちが与えられる訳ではありません。救いは恵みと信仰だけです。でも神の恵みにより頼む信仰に導かれていくためには、良いと分かっていても自分にはできないことがあるんだということを知り、認める必要があるのです。そのためにイエス様は青年にチャレンジを与えたのです。

結局青年は去っていくのですが、良いとわかっていても自分にはできないことがあるんだと認めることができなかったのです。ペテロをはじめとする弟子たちはその場を見たり聞いたりしていました。そこでペテロは口を開きました。つまり、あの去って行った青年は持ち物を売り払うことはできなかったけれども、「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」

この時のペテロをはじめとする弟子たちは、まだまだ、考え方がとてもこの世的なところがあります。この少し前に、18章の初めの方ですが、弟子たちはイエス様に「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」と聞いています。この後の20章の後半では、ヨハネとヤコブの母がイエス様のところに来て、「ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにしてくれ」と言っているのです。イエス様が王様になった暁には二人の子どもを登用してくれと願っているのです。弟子たちも、その家族も出世争いが気になって仕方がなかったのでしょう。だからペテロは、まだまだこの世的な価値観で「これだけのことをしたのだから、それなりの報酬はありますよね」という思いであったと思います。

それに対してイエス様は、ペテロの言ったことを戒めたり否定はしていません。イエス様はそれなりの報いがあることを語っています。イスラエルの十二部族をさばくとか、イエス様のために家族を捨てたものにはその幾倍も受けるとか、そして永遠のいのちにも言及しています。

この箇所をパッと読むと、永遠のいのちや他の霊的な祝福も、何かを捨てたとか、頑張ったとか、何か良い行いの見返りとしての報酬なのかなと、天の御国においてももしかして出世争いがあるのかと思ってしまうかもしれません。もちろんそんなことはありません。ここでイエス様は、信じて従っていくものに与えられる報いと、何か働きの報酬とは異なるということを明確にします。そのためにたとえ話をされたのです。

3.たとえ話

1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』(マタイの福音書20章1−4節)

5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』(マタイの福音書20章5−7節)

8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。(マタイの福音書20章8−10節)

11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』(マタイの福音書20章11−12節)

13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』(マタイの福音書20章13−15節)

16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイの福音書20章16節)

1節の天の御国というには神の国ということと同じで、直接的な意味は神の支配ということです。神が支配する世界とはどのようなものかが語られています。

天の御国をぶどう園の主人にたとえています。ちょうど収穫の時期を迎えた時であるということが背景にあります。収穫の時期ですから、短期間に収穫しなければいけないのでものすごく忙しいのです。猫の手を借りたいくらい忙しいわけです。ですからこの主人は、労務者を雇うために朝早くから市場に探しに行くわけです。

2節によると、主人は労務者たちを見つけました。そこで一日一デナリの契約を結んで、彼らをぶどう園に送りました。朝から働くというのは普通6時からなのです、夕方の6時まで、途中休憩はあると思いますが、12時間労働で1デナリという契約です。

この主人は朝9時、正午、午後3時頃出かけて行って、同じように労務者を探し、そして労務者をぶどう園に送りました。朝6時の労務者と異なる点は、1デナリ払うという約束をしているわけではないことです。主人は「相当のものを上げるから」といいましたが、別の言い方をすると「悪いようにはしないから」というニュアンスでしょう。労務者からすると、金額いくらとか明確な約束はないけれども、この主人を信頼してぶどう園に行ったということになります。

この主人は、何と夕方5時頃にも出かけました。すると市場には、まだ労務者たちがいたのです。「だれも雇ってくれないからです」と言っているので、仕事を探しているけれども見つからないでいる労務者たちです。彼らに対してこの主人は、賃金のことは一切語っていません。ただ「ぶどう園に行きなさい」と言っただけです。それでも5時に雇われた労務者たちは、この主人を信頼してぶどう園に行きました。

さて、夕方になって、賃金を払う時間になりました。まず最初に、5時に雇われた労務者たちが呼ばれて賃金が払われました。何と1デナリでした。1時間しか働いていないのに1デナリでした。

最初に雇われた労務者たちが呼ばれて賃金が払われました。彼らも、約束通り、1デナリ払われました。5時に雇われた労務者たちが、1時間しか働いていないのに1デナリ払われたので、もっと多くを期待するというはよく理解できます。文句を言うかは別にして、誰でもそう期待するんではないでしょうか。それほど報酬というのは働きの見返りとして与えられるということが、私たちにとって至極当然のように身についています。

最初に雇われた労務者たちは文句を言いました。一言で言えば、不公平ではないかということです。自分たちは12時間も働いたのに、しかも労苦と焼けるような暑さを辛抱したのに、ということです。

それに対して主人が答えました。その内容が13節から15節までの間にあります。最後に、このぶどう園の主人が語った内容を、もう少し吟味するために、ここまで語った流れを振り返ってみましょう。

4.ぶどう園の主人

まずお金持ちの青年の話から語る必要があります。青年は、永遠のいのちは、良い行いによる見返りとしての報酬と考えていました。この青年には信仰はなかったと思います。

ペテロをはじめとする弟子たちは、もちろんイエス様を信じてイエス様に従っていました。彼らは信仰者です。でも、行いの見返りとしての報酬という考え方は、根強く残っていました。神様からの祝福など霊的なことにおいても、この考え方に立っていたと思われます。

そんな弟子たちにイエス様が語ったことは、確かにイエス様を信じる者には報いがあるのだということです。でもそれは、決して良い行いに対する見返りとしての報酬ではないということです。その違い、信じる者に与えられる報いと行いに対する報酬との違いを明確にするために、たとえ話を語られました。

このたとえ話のポイントは

(1)このぶどう園の主人に表される聖書の神様は恵み深く、憐れみ深い、良い方だということです。

15節に「それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」とありますが、この「気前がいい」という言葉は、イエス様がお金持ちの青年に語った「良い方は、ひとりだけです」の「良い」と同じです。

(2)そして、その良い方は、私たちに、良いものを与えたいといつも願っておられ、そしてその思いのままに、与えてくださる方です。

もし私たちが「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」と言ったら、とても傲慢に聞こえます。でもぶどう園の主人は良い方なので、その良い方が思いのままに与えるとしたら、それはベストのものが与えられるということになります。

そしてその良い方が与えるものは、私たちの行いに対する対価や見返りとしての報酬ではありません。12時間働いた労務者も、1時間だけ働いた労務者も、同じ1デナリでした。これは1デナリはそのような報酬ではないことを表しています。たとえ、5時59分に来たとしても、1デナリ与えられたでしょう。それは、私たちにとって必要なもの、良い主人の目から見て私たちの必要なもの、ベストなものを与えてくださるということです。

そして、その与えられるものを受け取るのは信仰です。その主人を良い方と信じることだけなのです。5時に雇われた労務者たちは、契約も結んでないし、「相当なものをあげるから」とも言われていません。ただ「ぶどう園に行きなさい」と言われただけです。彼らは、その主人を信じてただそれに従っただけです。そして1デナリを受け取ったのです。働きに関わらず受け取ったのです。

(3)しかし残念なことに、良い方の恵みというのは私たちに妬みを引き起こすことがあるのです。聖書のいう恵みとは、受ける資格なないものに与えられる祝福とか恩寵なのです。全く資格がないものにベストのものが与えられるのです。ですから、自分には資格があると、こんなに働いたのに、こんなに頑張ったのにと思うと、あの人は何でたいして働いてもいないのにとか、何であんなにというように、妬みが湧いてくるのです。

そして、良い方を疑ったりとか、他の人と比較したりとかしてしまって、与えてくださっているものを受け取り損ねたり、受け取るのが遅くなってしまうことがあるということです。このたとえ話は、神は良い方であり、恵み深く憐れみ深い方であり、思いのままに与えてくださる方であるということ、そしてその方を信じる信仰の者が受け取る、まず先に受け取るのだということを説明しています。

この最初に雇われた労務者の問題点は何でしょうか。この気前がいい主人の恵みが見えなかったということです。

そもそも、こんなに素晴らしい主人のぶどう園で働けることは何と素晴らしいことでしょうか。働けること自体がどんなにか恵み深いことなんでしょうか。良い主人のぶどう園ですから、様々な祝福で満ちていたに違いないのです。でも恵みが当たり前になってしまうと、否定的なことばかりが見えるようになります。「労苦と焼けるような暑さを辛抱した」というような、否定的なことだけに思いがとらわれてしまいます。そして他の人と比較することで、ますます恵みから遠ざかってしまうのです。

神様は良い方で恵み深く、憐れみ深い、思うままに、豊かに与え続けてくださる方であることを信じて、受け取り続けていきたいと思います。

こうして皆さんと一緒に教会開拓を担っていけること自体が、私にとって大きな恵みです。もちろんその中には、労苦もあり、焼けるような暑さもあるに決まっています。どんな状況にあっても、良いお方である神に思いを向けていきたいと思います。

このような素晴らしいサンディエゴの地に来れたのも、こんなに住宅事情が厳しい場所に今住んでいるということも、今礼拝場所があることも、これまでの多くの人々との出会いも、すべて与えられたものと信じます。自分が頑張って獲得したものではありません。神様は常に良いお方であり恵み深く憐れみ深く、私たちにベストなものを豊かに与えてくださる方なのです。

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