1.はじめに
聖書は教会について、色々なものに例えて語っています。教会の本質は建物ではありませんが、聖書は教会を建物に例えて語っています。また教会は、キリストのからだとも言われています。また教会は、キリストの花嫁と言われています。このように、聖書は色々な例えで教会を語っていますが、今日お話ししたいのは、神の家族としての教会です。
多くの子どもたちは家族の中で守られ、養われ、教育され、訓練され、そして成長していきます。同じように私たち神の子どもたちも、神の家族の中で守られ、養われ、教育され、訓練され、そして成長していくのです。もちろん私たちを守り、養い、教育し、訓練するのは神様です。神様は私たちを本当に愛しているので、私たちを守ってくださるし、養ってくださるし、教えてくださるし、そして時には少し厳しい訓練もされるのです。
教会はギリシャ語で「エクレシア」と言います。そのもともとの意味は「家庭からある公の場に呼び出された市民の集まり」というような意味があります。つまり教会は、神様によってこの世からある使命ないしある目的をもって召し出された者たちの集合体や共同体を意味します。ところで皆さんは、ある目的や使命によって呼び出されると聞くと、まず考えることは「どんな働きをするか」ということではありませんか。もちろん私たちにとって働きは大切ですが、働きに関わらず、神様の目には私たち一人一人の存在が大切であるということを覚えてください。
イエスキリストを信じる人にとって、教会生活のない信仰生活は考えられません。今日は、神の家族としても教会ということを考えていきましょう。
2.共に住むことの祝福
旧約聖書の中で、神の家族の祝福を描いている箇所があります。
1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。2 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。3 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(詩篇133篇1−3節)
その神の家族の素晴らしさと楽しさが、二つの例えで表現されています。
一つは2節で、とうとい油のようだと言っています。ここで描かれている描写は、神の栄光や祝福の油がキリストに流れ、そして神の家族に満ち溢れていく様子です。
もう一つは3節で、それは、ヘルモンの露がシオンの山々におりるのに似ていると言っています。イスラエルは、雨が降らない乾季でも多くの果物がなるのは、ヘルモンの露が降りてくるからだそうです。ですからこのヘルモンの露は、多くの実を結ばせる神のいのちを表しています。
このように私たちが神の家族として一つになって共に住むところに、神の栄光や祝福、また神のいのちがあふれてくるのです。では私たちは具体的にどうすれば、この恵みにあずかることができるのでしょうか。
一つは、キリストのゆえに、できる限り集まるということです。私たちは、キリストのゆえにあらゆる機会を通して一緒に集まることで、できる限り時間と空間を共有するのです。
二つ目は、時間と空間だけでなく、いろいろなものを共有することです。 様々な思い、感情、また体験なども共有します。例えば喜びや楽しかったことも分かち合います。でもそれだけではなくて、悲しみや痛み、苦しみなども分かち合います。素晴らしい神の御業なども分かち合います。神様から語られたこと、神様から与えられたビジョンとかチャレンジなども分かち合います。
ちなみに究極の共有が、お互いに自分自身を捧げ合うということです。私自身は私のものではなく神のものであり、 主にある兄弟姉妹のものだという思いで互いに捧げ合うことで真の一致が生まれてきます。
実はキリストご自身が、私たちのためにご自身をささげてくださったのです。私たちはキリストのものになったゆえに、私たちが一つになって共に住むことができるようになったのです。ということで、三番目は、一緒にキリストを知るということです。キリストを一緒に知ることを通して、私たちの思いが一つになっていきます。
このように、私たちは物理的には共に住むことはできなくても、できる限り集まり、互いに自分自身をささげ合う思いで様々なものを分かち合い、一緒にキリストを知ることで、神の栄光、祝福、いのちが溢れます。そしてそれが、互いの存在を尊び、お互いがお互いの存在を喜んでいるということです。
皆さんは礼拝に集まってきていますが、こうして集まってくること自体が父なる神様の喜びです。もちろん私にとっても喜びですし、皆さんにとっても喜びだと思います。
初代教会は、一つとなって集まるだけで、そこに多くの、そして豊かな実がなっていきました。使徒の働き2章の46節、47節にこうあります。
46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。(使徒の働き2章46−47節)
初代教会は、伝道集会とか、何か伝道のために特別なことをしていたわけではないと思います。ただ喜んで、真心をもって集まっていました。彼らは家でパンを裂いていました。彼らは食事をともにしていました。そして彼らは神を賛美していました。それは礼拝です。そこに実がどんどんなっていきました。主が毎日救われる人々を仲間に加えてくださったのです。もちろん当時のイスラエルの状況と、今のアメリカや日本の状況は全然違うでしょう。でも、一つとなって ともにいるということ、ともに集まること自体が喜びであり祝福であるということは変わりありません。私たちはキリストにあって、お互いの存在を喜び合う神の家族であり続けたいと思います。
3.お互いの存在を喜び合うために to rejoice one another who we are in Christ
もう一つ私たちが、キリストにあって、お互いの存在そのものを喜び合うために必要なことを話したいと思います。それは、私たち一人一人が、何の働きもないのに、それどころか父なる神に背を向けていたのにも関わらず、イエスキリストのゆえに、父なる神様が私たちを子としてくださったということを信じること、そして信じ続けることです。
ローマ人への手紙4章5節にこうあります。
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ人への手紙4章5節)
私たちはイエスキリストを信じる信仰によって義とみなされましたが、それは私たちの働きとは全く関係ありません。私たちは、主の前で何の働きもなかったものであるばかりか、不敬虔な者でした。神に反逆し、神に背を向け、神を無視し、また神をバカにしていた者でした。そんな私たちを神様は、キリストの十字架によって私たちの罪を赦してくださっただけではなく、ご自分の子としての身分を与えてくださいました。神の家族に迎え入れてくださったのです。
私たちは何の働きもなかった、むしろ不敬虔なものであったにも関わらず、神は私たちを愛し、私たちを神の家族に招き入れてくださいました。これを信じ続けていくとき、私たちは、キリストにあって、お互いの存在を喜び合う神の家族であり続けるのです。
4.最後に
エペソ人への手紙2章19節にこうあります。
19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。(エペソ人への手紙2章19節)
この聖句は、私たちは神の家族であると宣言しています。私の願いは、このサンディエゴ希望教会が、お互いの存在を尊重し、お互いがお互いの存在を喜び合う神の家族であり続けることです。
私たち罪人の傾向は、働きがあるから受け入れられるとか、役に立つから認められるとか、何か素晴らしいことができるから愛されるというように考えるのです。しかし神との関係、神の家族との関係においては、そうであってはいけません。
神が私たちに求めているのは、(働きも大切ですが)働きの前に、神様の愛を信じることです。御子イエスキリストを十字架につけるほど私たちを愛してくださったその愛を信じ、受け入れることを神は私たちに求めています。私たちは神に愛されているので、この世を力強く、希望を持って歩んでいくことができます。愛されるために頑張る必要はありません。なぜなら、あなたがどのような状況にあっても、あなたは神に愛されていますから。
ということで、働きに関係なく、私たちの状況に関係なく、私たちはキリストにあって、いつも居場所があります。それが神の家族です。神の愛に感謝して、どうか、できる限り共に集まるということ、お互いに分かち合うということ、そして一緒にキリストを知るということに焦点を当てて、信仰生活を送っていきましょう。
最後に、チャレンジとして、以下のことを考えてみてください。
皆さんがすでにイエス様を信じ受け入れているならば、皆さんの信仰生活の中に教会生活がきちんと位置付けられているでしょうか。神の家族の中で、特に私たちが一つとなっていくプロセスの中で、神の栄光、祝福、またいのちが溢れます。神の家族の中で、特に私たちが一つとなっていくプロセスの中で、私たちは養われ、守られ、教育され、訓練され、そして成長していきます。
しかしその一つになるプロセスは必ずしも簡単ではないと思います。教会生活が必ずしも居心地の良いものではないかもしれません。教会生活の中で、意見が衝突したり、心が痛むことを体験したり、かえって苦しみ、辛いこともあると思います。
でもそのような状況に直面する時こそ、私たちがお互いに成長し、神のいのちや力を体験し、そして神の栄光が現わされる機会なのではないでしょうか。そのような時こそ、神様を見上げ、神様に向かっていってほしいと思います。
どうか、互いの存在を尊び、お互いがお互いの存在を喜び続ける教会、神の家族でありますように。