隣人となってくださったキリスト(2024年6月2日)

1.はじめに

先週私は、BMM (Business Marketplace Ministry) という集会に参加する機会が与えられました。このサンディエゴで様々なビジネスをされているクリスチャンの集まりです。彼らは、ビジネスとお客さんという関係で終わらせるのではなく、イエスキリストを信じるものとして、もっと深い繋がりを持てるようにしたいと願っている人たちでした。ビジネスを通して神の栄光を表していきたいという彼らの求めに、私自身も大変励ましを受けました。

イエスキリストを信じる者としてもっと人々と深い繋がりを持っていきたい、これは聖書が語る「隣人を愛しなさい」ということではないでしょうか。旧約聖書の中に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というフレーズがあります。今日はこのフレーズに関連する聖書箇所から語ります。それは新約聖書のルカの福音書にある「良きサマリヤ人のたとえ話」の箇所です。

このたとえ話を語るにあたっては、その背景が大切です。ですから前半は、このたとえ話が語られた背景を話します。そして後半は、このたとえ話について語ります。

2.律法の専門家

25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」(ルカの福音書10章25−26節)

27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(ルカの福音書10章27−28節)

29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」(ルカの福音書10章29節)

良きサマリヤ人のたとえ話は、ある律法の専門家に対してイエス様が語ったものです。その律法の専門家ってどういう人なのかが、今読んだ25節から29節までのところに描かれています。

この箇所は「すると」という接続詞で始まりました。原文は「見よ」(behold)という言葉になっています。そしてこの律法の専門家は「立ち上がり」ました。つまり彼は、もう我慢できない状況にあったのです。彼は苛立って、いてもたってもたまらない状況にあったのです。何ででしょうか。この直前に何があったのでしょうか。

この律法の専門家が登場する前に何があったかというと、イエス様が70人の弟子たちを宣教に派遣して、その弟子たちが帰ってきて宣教報告をしたのです。弟子たちは喜んでこう言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」するとイエス様は言いました。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

そしてイエス様は喜びにあふれて天の父なる神に言ったのです。この幼子たち、つまり弟子たちの名が天に書き記されていること、それはつまり父なる神と子なるキリストの交わりに彼らも招かれていることに感謝しますと。

そしてそれを聞いていた、この律法の専門家はいらだったのです。なぜでしょうか。それは「このような律法に無知なものが、律法をろくに守れないものが、神に受け入れられるはずはない」と思ったからです。「このようなものの名が天に書きしるされるはずがない」と思ったからです。

律法の専門家はイエス様をためそうとして質問しました。純粋に何かを知りたくて聞いているわけではありません。イエス様が律法に無知であるか、律法をいい加減に扱っていることを証明して、評判を貶めようとして、あえて質問しているのです。

律法の専門家は「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と言いました。彼は、正しい行いによって永遠のいのちを受けることができるという前提に立って質問しています。しかしこの前提は、聖書の真理ではありません。

ですからイエス様としては、「自分は律法を守ることができるし、実際守っている」「律法を守ることで神に近づくことができる」という彼の認識の土台を崩すことが必要です。人は神の律法を完全に守ることができないということを分からせる必要があります。そのためのやり取りであるということを知っておく必要があります。

イエス様は答えました。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」イエス様の方から律法を持ち出したので、予想外の展開に、この律法の専門家は拍子抜けだったと思います。

イエス様の質問に対する律法の専門家の答えは百点満点です。『神を愛せよ』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』この二つの命令に、律法全体は集約されます。イエス様も、福音書の別の箇所で、同じことを言われました。「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

そこでイエス様は言いました。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

先ほども言いましたが、イエス様は、この律法の専門家が「人は神の律法を完全に守ることはできない」ということを分からせるためにチャレンジしているのです。ですからイエス様は「律法を守ることで永遠のいのちを得ることができる」ということを肯定しているわけではないのです。

実際、律法を与えた神様のことを、つまり神の心、神の聖さ、神の愛を知れば知るほど、ああ自分は神の命令を守ることはできない、神の思いには全然ついていけない、と認識するはずなのです。でもそのことを認識するからこそ私たちは、「イエス様助けてください」と、キリストにより頼む信仰が生まれてくるのです。イエス様は、この認識をこの律法の専門家にも持たせたいのです。このような答えをこの律法の専門家から期待していたと思います。しかしこの律法の専門家の答えは違いました。

29節にこうあります。

しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

「自分の正しさを示そうとして」つまりこの律法の専門家は、自分は律法を正しく守れるという認識を捨てていません。でも実際、「隣人を愛する」とはどういうことかわからないのです。ですからその定義が必要なのです。そして定義があれば、自分はその命令を実行できると思っているのです。

当時のユダヤ人はモーセの律法に関連するたくさんの規程を作っていました。口伝律法と言われるものです。例えば「安息日を守りなさい」という命令に対して、これはしても労働にならないが、これは労働だからだめだとか、一日何マイルまで歩くのは労働にならないとか、たくさんの規定を作っていました。そして細かな規定を守ることに囚われてしまって、肝心の神の心からはどんどん離れていきました。

この律法の専門家のもっとも大きな問題は何ですか。それは神様との生きた関係がないということです。命令を与える神の心を知らないのです。神様から愛されているのに、それを知らないのです。神についての知識はすごく詳しいのですが、人格的に神を知らないのです。

神様との生きた関係から教えられることがないので、事細かな定義がないと、何をして良いかわからないのです。ということが背景にあって、イエス様はたとえ話を語ります。

3.良きサマリヤ人のたとえ話
30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(ルカの福音書10章30−32節)

33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』(ルカの福音書10章33−35節)

36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカの福音書10章36−37節)

このたとえ話を聞いて、皆さんはどう思われましたか。祭司とレビ人は、強盗に襲われて半殺しになった人を、見て見ぬふりをして、反対側を通り過ぎて行きました。ありえない、ひどい話です。もちろんこれはたとえ話ですから、実際にあった話ではありません。

祭司は神殿で奉仕をする人たちです。レビ人はその祭司の補助をする人たちです。神様に直接仕える人たちです。大衆の模範となり、大衆に仕えていくべき人たちです。その宗教指導者である祭司とレビ人が、同胞のユダヤ人が強盗に襲われて、半殺しになって、苦しんで息絶え絶えになっている人を見たのです。でも反対側を通り過ぎて行きました。最も近くにいて必要を訴えている隣人を見て見ぬふりをしました。おそらく、死体に触れると汚れるという律法があるので、面倒なことに巻き込まれたくないという思いであったのでしょう。

この祭司やレビ人のもっとも大きな問題は何ですか。それは、先ほどと同じです。神様との生きた関係がないことです。神の臨在がないことです。神様との関係、神様の臨在、神様の助けがなければ私たちは、やるべきことができないのです。私たちの肉(古い罪の性質)は弱いです。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです」とパウロは言いました。

私は「ありえない、ひどい話です」とは言いましたが、自分自身も振り返ってみると、ここで声をかけて助けなくてはいけないと思った場面でできなかったことが思い出されます。神様との生きた関係があって、神の臨在が迫ってくるとき、私の肉はできなくても、神様が私のうちで働いてくださるのです。

ということで祭司とレビ人は反対側を通り過ぎて行きましたが、何とあるサマリヤ人がこの半殺しにあった人に近づいて来て、傷の手当てをし、ありとあらゆる介抱をして、この人が回復できるような場所を確保し、金銭的な負担もしました。先ほど、祭司とレビ人についてありえないと言いましたが、このサマリヤ人がしたことは、はるかにありえないことだったのです。

サマリヤ人とユダヤ人とは犬猿の仲でした。それには歴史的な経緯があります。紀元前922年ごろイスラエルが分裂し、北イスラエルと南ユダに分かれました。紀元前722年ごろ北イスラエルはアッシリアに捕囚されてしまいました。アッシリアの植民政策によってサマリヤ地方に異民族が入ってきて、ユダヤ人と異民族との混血の民がサマリヤ人なのです。

ユダヤ人はイエス様のことを「悪霊につかれたサマリヤ人」と呼んだ場面があります。ユダヤ人にとってサマリヤ人は、人間失格、悪霊の手先だったのです。それほどユダヤ人に憎まれ、拒絶され、バカにされ、嫌われたサマリヤ人が、何とユダヤ人に近づいていって、最大限の愛を施したのです。

イエス様がこのたとえ話を語ったとき、その心の中でこのサマリヤ人は誰を指していたのでしょうか。ありえないこのサマリヤ人は一体誰なのでしょうか。実はこのサマリヤ人こそ、イエスキリストご本人なのです。

33節に「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い」というくだりがあります。この「かわいそうに思い」という動詞は、実は、神様、またはイエスキリストにしか使われていない言葉なのです。神の深い憐れみを表す言葉です。

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」(マルコの福音書1章41節)

「かわいそうに、この群集はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。(マルコの福音書8章2節)

いずれもイエスキリストの深い憐れみを表しています。

このサマリヤ人がイエス様だとすると、私たちは皆、この強盗に襲われて半殺しにあった人のようなものだったのではないでしょうか。私たちは霊的に死んだ者でした。私たちは、神様との関係が切れて、迷える羊のようにさまよっていたのです。

このサマリヤ人が強盗に襲われた人に近づいたように、イエスキリストはそんな私たちに近づかれました。神でありながら、人となってこの地上に降りてきてくださいました。そして33年の生涯にわたって、その命を注ぎ尽くしたのです。このサマリヤ人がオリーブ油とぶどう酒を注いだように、イエスキリストは十字架の上でその命を注ぎ尽くされたのです。このありえないサマリヤ人が、実はイエスキリストを表しています。

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」とイエス様はこの律法の専門家に聞きました。彼は答えました。「その人にあわれみをかけてやった人です。」最後まで「サマリヤ人です」と答えることができませんでした。

自分はとてもサマリヤ人を愛することはできない、自分は隣人を愛することができない、人は神の律法を完全に守ることはできないことを、最後まで認めることができなかったのです。もし認めることが出来ていたら、彼もまた救い主を求めるようになったはずなのです。

この律法の専門家の最大の問題点は何でしたか。それは神様との生きた関係がなかったことでした。神様についての知識は豊富でしたが、神様との人格的な関係がありませんでした。

そんな律法の専門家に対してイエス様は「あなたの目の前にいるわたしが、あなたの隣人になったのだよ」と語っているのです。イエス様が関係を求めてくださっていたのです。

4.最後に

最初に、Business Marketplace Ministryに参加した話をしましたが、それに関連して、思い出すことがあります。

私は、まだクリスチャンになる前、銀行で働いていた時、3年間ほどニューヨークに住んでいました。私が住んだニューヨク郊外に、小さな日本の食料品店があり、韓国人のご夫妻がオーナーでした。奥様の方がいつもレジにおられたような記憶があります。

私たち夫婦が買い物に行くと、必ずその奥様は私たちに声をかけてくださいました。「いつニューヨークに来たの?」「友だちはできた?」「友だちがいないのなら教会へ行ってみたら?」私は、彼女の話す言葉の中に「神様」という言葉が出てきた時から、これはまずいと思い、できるだけこの奥様とは目が合わないように、話をしないようにしていました。でも妻はこの奥様の話をよく聞いていたようです。

不思議なことに、それからしばらくして私たちは近くの日本語教会に行くようになりました。そして日本に帰国してからも、教会に繋がり、帰国して半年後くらいに私たち夫婦はイエスキリストを受け入れ、洗礼を受けたのです。

私はいつもこの奥様に背を向けて、拒絶し、無視していました。しかし後から分かったことは、私はイエスキリストに背を向け、拒絶し、無視していたということです。ところがそんな私に、イエスキリストが近づいて私の隣人になってくださったということも、後にわかりました。

この韓国の奥様は、お店に来る人々の隣人になろうとされていた方であると思います。少なくとも私たち夫婦に対してはそうでした。もし彼女が、店に来るお客さんをビジネスの対象としてしか見ていなかったら、今私はここにいなかったかもしれません。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」このフレーズは単なる命令ではありません。イエス様を信じていない人々の中には、クリスチャンというのはとても窮屈に見える方もいらっしゃるようです。日曜日には礼拝に行かなければいけない、献金も豊かにささげなくてはいけないというように、多くの命令に縛られているように見えるようです。

しかし聖書の本質はキリストの福音です。福音は良い知らせです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というのも、実は「あなたはあなたの隣人をあなた自身のように愛するようになるよ」という福音なのです。たとえ自分が苦手な人でも、逆に拒絶されてり、憎まれたりしているような人に対してでもです。

なぜでしょうか。それはキリストがまず私たちの隣人になってくださったからです。背を向け、拒絶し、無視していたこんな私の隣人になってくださったのがキリストなのです。そのキリストが信じる者のうちにいてくださいます。だから私たちのあらゆる人々の隣人になって行くのです。今日登場した律法の専門家にとって「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は単なる命令でしかなかったのです。この律法の専門家も、律法に関しては豊かな知識がありましたが、実は彼もこの「命令」を守ることができない罪人だったのです。そのような罪人に関係を求めてくださったのがイエスキリストあのです。

福音はイエスキリストが私の、また皆さん一人一人の隣人になってくださったということです。そして福音は、私たちまた皆さんも、あらゆる人の隣人になっていくということです。なぜなら、隣人であるキリストが信じる者のうちにおられて働いてくださるからです。

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