「あなたはわたしを愛しますか」(ヨハネの福音書21章15―25節)

15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」(ヨハネの福音書21章15節) イエスキリストはペテロに対して3度「あなたはわたしを愛しますか」と聞きました。ペテロが3度イエスキリストを否定したことに対して、キリストは3度「愛しますか」と聞いているのです。これは決してペテロの罪を責めているのではなく、むしろ励ましであると確信します。 ペテロは自分がしてしまったことに対して、罪責感だけではなく、恥の意識があったと思います。恥とは、自分は愛されるに値しないとか相応しくないというような感情でもあり、感覚でもあり、思いでもあります。愛される自信がないという感情、感覚、思いです。 最初にアダムとエバが創造されたとき、聖書は「ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」とあります。しかしふたりが罪を犯したとき、聖書は「ふたりの目が開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」とあります。つまり人間が罪を犯したとき、最初に抱いた感覚が恥であるのです。罪人である私たちは誰でもどこかで自分を恥とする意識があるのです。 しかしキリストの愛は無条件の愛です。私たちが恥とするようなことも含めて私たちを丸ごと愛してくださるのがキリストの愛なのです。そして私たちが自分を恥としているようなことがあっても、それが私たちとイエス様との関係を築いていく妨げには全くなりません。ですから「あなたはわたしを愛しますか」という問いかけに、私たちがどのような状況であっても恥じることなく、大胆に、信仰で「はい」と言えるのです。

「よみがえられたキリストに出会う」(ヨハネの福音書20章11―23節)

13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。(ヨハネの福音書20章13―14節) ヨハネの福音書によると、よみがえられたイエスキリストに最初に出会ったのはマグダラのマリヤです。彼女は朝早くまだ暗いうちに墓に来ました。しかし墓が空になっていたのを見て、だれかがイエスの遺体を取って行ったと思い、泣いていたのです。しかしその時、墓からよみがえられたイエスキリストに出会いました。彼女は、イエスの遺体を捜していたのですが、そこで生きているキリストに出会ったのです。 この世のものはみな朽ちていきます。しかし私たちは、そのような朽ちていくものを追い求めているということはないでしょうか。私もかつては、お金や出世、この世の良い暮らしなどを追い求めていました。しかしそれらは永遠に価値のあるものではなく、いずれ朽ち果ててしまうものです。 そんな私たちに必要なのは、私たちの罪のために十字架で死なれ、そして三日目によみがえられたイエスキリストです。よみがえられて、今も生きているイエスキリストとの出会いによって、私たちは永遠に価値のあるものを追い求める人生に変えられていくのです。

「信じて理解する」(ヨハネの福音書20章1―10節)

6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。8 そのとき、先に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。(ヨハネの福音書20章6―9節) イエスキリストが葬られた墓が空になっているという知らせを聞いて、キリストの弟子であるペテロとヨハネは墓に向かいました。8節の「先に着いたもうひとりの弟子」というのはヨハネのことです。彼が空の墓を見て、信じました。キリストがよみがえられたことを信じたのです。しかし9節によると、「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」とあります。これはどういうことでしょうか。 キリストの弟子たちは、キリストが十字架で死なれ三日目によみがえることを何度か聞いていました。しかしそれが人の罪の救いのためであり、神の計画であり、父なる神のみこころであることを理解できませんでした。彼らが、キリストの十字架と復活を聖書全体から理解するのは後のことです。しかしそれでもヨハネはここでキリストのよみがえりを信じたのです。 聖書を理解しないとキリストを信じることはできないと思っていないでしょうか。確かに聖書信仰は、決して盲目的な信仰ではなく、ある程度の理解は必要です。しかし完全には理解できなくても、キリストを信じる決断はできるのであり、またその決断が必要です。そして信じることを決断してはじめて、聖書が理解できるようになるということも真実なのです。